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第3話 オルフィーナ・イエルコット
理事長室のティッシュボックスを空にするほど、如月は鼻をかんだ。それから二杯目の紅茶を、カップを両手で持ってゆっくりと飲んだ。その味だけでなく、香りをも楽しむことができた。心はやっと平常に落ち着いていた。
早乙女理事長も、お茶を飲みながら言う。
「ファーミューン語の勉強は、どうやってるの?」
「ネットです。ホームページを見たり、動画を見たりしています」
姉に隠れてこっそりと、とは言わなかった。如月美衣紗を産んで、すぐに母親は亡くなってしまった。10歳離れた姉の恵理紗が育ての親だ。そして姉は恐ろしいほど、ファムンフォアのことを嫌っていた。
「なるほど、ネットは便利よね。でも、きちんと先生が一対一で教えてくれるとしたら、興味はない?」
「えええ?」
日本にだってファムンフォア人はいる。だが、みんな大都市に住んでいるだろう。こんな東北の小さな街に、わざわざやって来るとは思えない。
「じつはね、先方の大学とのお話の中で、学園長のお孫さんが日本に興味を持たれたそうなの。それで突然だけど、当高等部に留学生としてお迎えすることになって。あなたと同じ、高校二年生よ。向こうの学園からしてみれば、実地調査も兼ねてるのかしら?」
「へーえ」
「如月さん、その子のお世話に興味はない?」
「お世話、ですか?」
今日は驚く話ばかりだ。
「もちろんこれは、先ほど話した交換留学との交換条件ではない。断っても、いっさい影響はありません。でもね。その子に、将来ファムンフォアに留学したい生徒がいると話したら、とっても興味を持ってくれて。如月さんに言葉はもちろん、できるだけ文化、風習だって教えてあげたいと言ってるの。少しでも力になってあげたい、って」
如月は胸が熱くなった。
世の中には、何て優しい子がいるのだろう!
「だからWin-Winの関係だと思うの。彼女は寮に暮らすことになってるわ。だから学園内で、力になってあげて欲しい。もちろん常に側にいる必要はない。彼女の相談に乗ってあげたり、困ってたら助けてあげるとか。そういう感じね」
相手はとても心優しい女の子のようだ。自分だって、ぜひ力になってあげたい。
でも。
「それは少し、考えさせてもらっていいですか? 責任は重大だと思うので、簡単に返事はできないです」
「もちろんもちろん。でも、これは個人的なお願いなんだけど。お世話することはできなくても、たまに声をかけてくれたら嬉しいな。留学先に同じ言葉を話せる人がいるなんて、きっと心強いものでしょう」
「そうですよね」
早乙女理事長は腕時計を見た。小さいけれど、とても高そうな時計だな、と如月は思った。
「そろそろ、その本人が来てもいいはずなんだけど」
「うわ。話が早いんですね」
「三人で話した方が早いかと思って。それに直接会ってみないと、どんな子かわからないでしょう?」
「それもそうですが」
そこへノックが響いた。ゆっくりと二度。その音はなぜか如月を緊張させた。相手がとても同じ女子高生だとは思えなかった。こんな堂々としたノックの音は、今まで聞いたことがない。
「やっと来たみたいね。ファムンフォア人って、時間にルーズなのかな?」
早乙女理事長は、くすりと笑う。
「どうぞ。入ってください」
すると扉が、ぱっと開いた。
「あああああ!?」
思わず立ちあがる如月。
「ど、どうしたの?」
早乙女理事長は座ったまま、如月につられて動揺した声を出す。
理事長室に入って来た少女は、ゆっくりと一礼した。牛乳色の肌。蜂蜜が流れているような腰までの金髪。煌めくエメラルドの瞳。美少女。息を飲むほどの美少女。自分と同じ白いセーラー服を着ているのに、まったく印象が違うと如月は思った。まるで、同じデザインなのに素材がまったく違うみたいだ。いや、そもそもこの制服は、彼女の美しさを際立たせるようにデザインされたんじゃないかしら。
美しい。
そして高貴。
空気感がまったく違う。彼女の前では、周囲の者はみな背景だ。彼女をより美しく見せるための、引き立て役に過ぎない。どんな宝石も、どんな花でさえも。
「あ、あ、あ」
間違いなかった。
少女の名前は!
如月が口を開く前に、少女は言った。
「ネダ」
そして、にっこりと笑った。
ネダとは、丁寧に言うとニェーダ。もっと優しい表現ではイエンセ・ニェーダ。ネダとは命令形で、ファーミューン語で、黙れ、という意味だ。
その少女は優雅に、理事長室の床を歩いた。人間はこんなに美しく歩ける生き物なのだと、如月は初めて知った。
少女は如月の前に立ち、どんな花がほころぶよりも華やかな笑顔で言った。
「初めまして、ミイシャ・キサラギさん。私はオルフィーナ・イエルコットです。お会いできてとても嬉しいです」
そしてその少女、ファムンフォア聖王国の第三番目の姫君、エル=シャリーナ・フィア・エッランド姫はファーミューン語で、こう付け加えた。
「私の本名と地位をばらすんじゃねえぞ。言ったら、ぶっ殺してやるからな」
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