第7話 如月恵理紗

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第7話 如月恵理紗

 如月はアパートの錆びた外階段を静かに登った。下の階の端に住む老人は神経質で、ちょっとでもうるさくすると、すぐに文句を言ってくるのだ。  建物は二階建てで、各階3部屋ずつ並んでいる。如月美衣紗と姉の恵理紗が住んでいるのは真ん中の、202号室だった。  長くない階段の途中で、如月は立ち止まる。姉に、寮暮らしのことをお願いするのは気が重い。だが今日、言わない訳にはいかなかった。  如月は家に入ったらすぐ、その話を切り出そうと決心した。ぐずぐずしていたら、ますます言う機会を延ばしてしまうだろう。  残りの階段を登って部屋の前に立ち、ふーっと一息してから呼び鈴を鳴らす。 「おかえりー!」  すぐに鍵が外されて、ドアが開いた。赤いエプロン姿の姉が、笑顔で立っている。  姉は少しきつめの顔をしているが、かなりの美人だ。目鼻立ちがはっきりとしており、たいていの人が一目でハーフだと見抜く。髪が茶色い以外は日本人顔の如月とは、あまり似ていない。 「もお。相手を確認しないで開けちゃだめだよお。いつも言ってるじゃない」  姉は口を尖らせる。 「みいちゃんだって、わかってたわよう。お姉ちゃん、みいちゃんの足音は絶対に聞き間違えないもの」 「足音なんて、聞こえなかったはずだけどなあ」 「お姉ちゃんには、ちゃんと聞こえるの! それよりも、ただいまは?」 「うん、ただいま」  如月は脱いだ靴をきちんと揃えて、家に上がった。そこはすぐに、狭いながらも台所になっている。美味しそうなシチューの匂いがした。 「早く着替えてね。お腹空いたでしょう。今日はみいちゃんの大好きなクリームシチューにしました!」  しばらくの静かな間ができた。姉は如月の顔を覗いて、もう一度繰り返す。 「クリームシチューにしました!」  それでも如月から反応がないので、姉は怪訝そうな顔をした。 「嬉しくない? 今日は別なメニューの方が良かった?」 「ち、違うの」 「お寿司がいい? 焼き肉の気分だった? ごめんなさい、お姉ちゃん、言ってくれればすぐに準備するからね」 「だから違うんだよお」 「そうなの? 最近、みいちゃん、素直に言ってくれないんだもん。お姉ちゃん、悲しいわあ。昔はケーキが食べたいとかお人形さんが欲しいとか、いっぱいいっぱい言ってくれたのにい」  それは大人になったからだよと如月は思った。姉は、如月を喜ばせるためなら何でもしてくれた。もう少し自分のために生きてくれてもいいのになと、真剣に思う。 「大事な話があるの」  如月は制服のまま、茶の間に正座する。 「あら、まあ」  姉はエプロンで手を拭いてから、如月の前に同じく正座して座った。 「何かしら? 怖いわあ。お小遣いの話なら、テストの成績次第の約束よね」 「その話じゃないよ」  テストで良い成績を採ると、姉は努力賞と言って、いつもより多くお小遣いをくれる。大丈夫、足りてるよ、といつも返そうとするのだが、そうすると悲しそうな顔をされてしまう。 「じつはね」  如月は両手を膝の上で握り締めながら言った。 「寮に入りたいと思ってるの」  姉はその言葉を聞いても、笑顔をまったく崩さなかった。 「あ、あのね、ファムンフォアから留学生が来てね、理事長にお願いされてね、そのお世話をすることになったの。そして彼女の希望もあってね、寮に入りたいの」  如月は早口で言う。 「ファーミューン語、教えてくれるんだって。それ以外にも色々、教えてくれるって。あっ、理事長が、大学部に進学したら私をファムンフォア留学に推薦してくれるって言ったの。もっとファーミューン語、勉強しなくちゃね!」  姉は笑顔のまま、何も言わない。 「お姉ちゃん? 聞いてる、よね?」 「うん」 「だめ、かな? 寮費も払わなくていいんだって。特別待遇なの」 「うん」 「わ、私としてはね、決して悪い話じゃないと思うんだよ」 「うん」 「寮に入ると言っても、3ヶ月だけなの。それくらい、あっという間だと思うな」 「その留学生の名前」  姉は優しい笑顔のまま言う。 「何て言うの?」 「え?」  お姫様だとは言わない方が、さすがに良いだろう。 「オルフィーナ・イエルコットさんだよ」 「わかった」  姉は、すくっと立ち上がった。 「シチューは先に食べててね。お姉ちゃん、ちょっと出かけてくるから」 「え? どこに?」  姉は無言のまま、畳に膝をついて押し入れを開けた。中に上半身を奥まで入れて、何か探している。 「お姉ちゃん?」  姉は目的のものを見つけたようだ。それを片手に持って立ち上がり、押し入れを閉める。 「お、おね、おね」  「大丈夫、すぐに済むから」 「そ、そ、それ」  姉が握っているのは、長い紫色の袋だった。如月はその中に、黒い鞘に入った日本刀が入っていることを知っている。姉は居合道の段を持っていた。 「あ、あの、その、オルフィーナさんを」  姉は、うん、と頷いた。 「切る」 「あああああん!」  出かけようとする姉の腰に、如月はしがみつく。 「だめえ! やめてえ!」 「切る! 切るのよ! 大丈夫! 警察には見つからないようにやるから!」 「ああん! お姉ちゃあん! 落ち着いてえ!」  「うふふ! うふふふふふふ!」 「ああーん! 人殺しは絶対にだめえ!」  下の階の老人が、うるさいとすぐに文句を言いに来た。
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