序節 マヤとライナ 一 汽車

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序節 マヤとライナ 一 汽車

 汽車は進む。ガタンゴトンと音を立てて。時折、誰かを威嚇するような唸る汽笛で、空気を震わせながら。  大蛇のような鉄の巨躯が漠々たる平原を這い、蓬々と吐かれる蒸気の尾は疾走の跡となり景色を彩って趣を加える。牽引される客車の車窓からは、老若男女の顔が数多覗いており、そこに埋まる双眸は、それぞれの想いを描いていた。  その内の一面、何かを受け入れたような瞳を持った女が一人。  女はずっと外を見ていた。目の前には平原が広がっていて、空は狂おしい程に晴れ上がっている。視界に入る緑蕪は燦々と輝く陽の光を受けて若緑を艶立たせ、合間に見える花は我が世とばかりに咲き誇り、薫風が吹くとそれらは至福を表現するかのように揺れ踊った。『貴方も幸せでしょう』と、そう呼びかけるように芳卉を通り過ぎた風は、窓から彼女の頬と髪をさらりと撫でる。だが彼女はその問い掛けには応えない。風はただ、彼女を一瞥して通り過ぎるのみであった。  女はふと想起した。何かの読み物で辛い思いをした主人公が『次に生まれてくる時は草花でありたい』と言ったのを。それを読んだ時、女は主人公の気持ちを汲むことができなかった。しかし、今はそれを少しだけ忖度することができた。何故か。それは、主人公は知ってしまったからだ。運命があまりにも残酷なのを。だから何の感情も持たない草花に生まれたかった。そうなのではないかなと女は思った。  今世の趨勢は女の想いとは外に動いている。何事も個の趣くままにできるような状況では無かった。世は無情。そう思うとこの客室も牢獄に思えてくる。抗えるものならば、感情に身を任せたい。けれども自分の体は自分だけのものでは無く、自死することすら慎まねばならぬ身であった。  暫くして隧道に入る。窓の外が黒一色になるも、彼女は相も変わらず窓に顔を向けたままで、光を吸って返さない一面の漆黒を景色にしていた。そこで向かいに座る老婦が、汽車の排気煙が車内に入るのを察して立ち上がり窓を閉じた。 「……」  女は無反応だった。彼女にとってこの老婦が母同然であるからなのかもしれないが、礼や文句の何も無かった。老婦は元の場所に腰を据えると少し俯いてから再び目を閉じた。 「……」  女は硝子窓に映った自分の顔を見ながら故郷の事を想った。つい四日前に発った場所ではあるが、生まれてから自分の国を出たことがない彼女にしてみれば長い旅路であった。ましてや、再び故郷の地を踏むことを諦めた上での出国であるのだから尚更の話だ。  彼女が出立する時、見送りのために数千を超える民衆が訪れていた。そこに集っていた人々の顔……無情を嘆き、哀情を催し、同情を寄せるあの顔、顔、顔……。その多くは悲哀で暮れていた。あの光景は未だ鮮烈を保って頭中から離れない。  汽車は隧道から出ると、再び陽光の海を駆けた。彼女は眩しさに目が眩み、咄嗟に袖を目の前に当てた。同時に目から何かが溢れ掛けている事に気付いて、目が陽の光に慣れた後になっても目を覆い続けていた。老婦は彼女の心情を察して、温然とした声を掛けた。 「辛いですか」  女は黙って首を振ると老婦は複雑な顔をした。 「あの者達の顔を見たら、辛いなんて言葉は出せないわ」 「言葉を出す事で貴女の心が軽くなるのでしたら、それでもいいのではないですか」  女は険しい表情で老婦を睨んだ。 「あなたはあたしに皆の気持ちを蔑ろにするような真似をしろというの」 「それは、気負い過ぎというものです」 「私に多くは求めてはいないってこと」 「そうは言っていないでしょう」  老婦の口調に丸みが無くなると、それと同時に彼女の顔が強張った。女は俯いて視線をそらすと、その姿は子が親に睨まれたような格好となり、少し声を窄めながら抗弁した。 「あたしは……あたしだけの事を考えていい人間じゃないわ。当然の事よ」 「何かを背負う覚悟があるのは良い事です。ですが、全ての物事には限度というものがあります。多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけないのです。荷が勝ちすぎるようでは歩む事すらできませんよ」 「ええ、分っている。分っているわ。あたしが非力なのは……でも、あたしにも出来る事があるかもしれないでしょ」 「その通りです。同時に貴女に出来る事は随分と限られています。ですから、徒に行動すれば、良からぬ結果を招くことになります。良案とは知性と経験から生まれるもので、そう易々と出てくるものではありません」  老婦に釘を刺された形となった女は沈痛な表情を見せた。白くて細い手を袖の中でぎゅっと握り締める。 「貴方がお優しいのは、私が良く知っています。ですが……」と老婦が言いかけたところで、彼女はそれまでの可愛らしい声を荒げて叫ぶ。 「優しいだけでいいのっ」  これに老婦は笑顔で応えた。 「いいのです」  これに彼女は面食らった。大事を前にしたこの時において尚、この様な事を言うのか、と。だが、すぐに思い直した。所詮は一人の女であるこの私に、悩む以外の何ができるのかと。すると使命感の上に弱気が芽生え、それが自虐の木となる。木に成った実は彼女の涙となり、頬を伝って零れ落ちた。 「どうせ……あたしなんかが、何かできる訳ないわ。家を焼かれ、民草が灰にされも……何も……」 「またそのように、ご自分を悪く仰る」 「だってそうでしょ」  彼女は顔を歪め、手を覆っている袖で涙を咽びながら拭った。一掬もあろうかというそれは絶えず目から溢れ出て、女を悔しさで濡らしていった。だが、老婦は慰めでも叱咤でもない、さも当然といった様子で彼女の高ぶった気持ちに語り掛ける。 「少女に縋るほど民草は弱いものでありはしません。寧ろ、可憐な花よりも草の方が強いものです」 「……じゃあ、なんでみんな泣いていたの。私を期待していたのではないの」 老婦は彼女の目をじっと見る。老婦は大事な事を話す時、必ず目と目を合わせた。不思議な事に彼女はこの視線を逸らすことができなかった。だが、それを今まで『嫌だ』と思った事は無い。老婦は常に彼女を想っていて、彼女自身もそれを知っているから。 「いいですか。彼らは自分を嘆いているのです。それは自身の不幸を嘆いているのではなく、自身の無力さに嘆いているのです。同じ地に根差す花を他人に毟られた悔しさに涙しているのです。民はあなたに何かして欲しいなんて思っていません。むしろあなたに幸せになることこそ民の望みなのです」 「嘘……嘘よ。あの人たちは私の為に泣いていたというの」 「はい。全ては斎王のためなのです。貴女は自身を民の母と思っておいでかもしれませんが、民は、貴女を、神より授かった大切な、それは大切な娘だと思っているのです」 「本当に」  老婦は頷く。 「勿論です」 「……本当の本当」 「私が今まで嘘を吐いたことがありますか」  彼女は顔を濡らしたまま苦笑いする。 「……あるわ、沢山。昔、あたしが宵中に時間を忘れて本を読んでいたら、あなたは『油燈をそんなに使っていたら、国の財政が破綻してしまいます』と言ったわ。小さかった私は随分と気を揉んだものよ」  老婦はこれに、額に皺を寄せながら心外とばかりに反論した。 「あの時は『贅沢をしてはいけない』と言ったのです」 「嘘よ。吐かれた方は忘れないものよ。それ以外にもつまらない嘘を沢山吐かれたわ」 「それこそ嘘です」  彼女は目を見開いて老婦に向かって叫んだ。 「言ったわ。あたしそんなに忘れっぽくない。絶対に言ったもんっ」 「喋り方が戻っていますよ」  彼女は口に手を当ててしまったという顔をする。 「語尾には『です』『よ』『わ』。気品ある女性語を用いるよう努めてください。それと、一人称はあたし、ではなく私です」  彼女は頬を膨らませると、その姿をみた老婦は同じように頬を膨らませておどける。その顔に耐えきれなかった彼女は口に含ませた空気を吐き出しながら笑った。老婦の顔にも笑みがこぼれた。  女の中に巣食っていた不安や焦燥は、老婦と話す内に取り除かれていった。彼女は思った。この老婦は自身の最大の味方であると。それは意識では無く心の奥底で自然のままにそう確信したのだ。  彼女は席を立つと、老婦の隣に座る。そして、老婦が彼女の手と自分の手を重ね、彼女は老婦の手を強く握った。  ふと外を見る。姉弟だろうか、背丈の違う二人の子供が手を繋いで歩いているのが見えた。人家が近い証拠である。もう少しで到着するであろう……終点、若しくは始点へ。  汽車は進む。汽笛を鳴らして。彼女の想いを汲むことなく、過ぎゆく時間と来る時代と共に。
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