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お名前を拝借
異世界転生ってあるだろう?
ゲームの世界だったり、漫画の中だったりに入ってしまうやつ。
あれだけ世に浸透していたのだから、対策だとか安全マニュアルだとかあってもよかったのにな?
もしかすると、俺の知らないところで作られていたのかも知れない。
そうだとしたらすこぶる残念だ。もっと大々的に公表してくれなかった制作者の枕元に立って、羊を数えてやるくらい恨めしく思う。
何故こうも恨みがましく思うのか。どうやら俺は、何の対策も練らないまま、件の状況に陥っているらしい。
はたと感じた覚める感覚。
忘れていたものを思い出したような、夢の中で夢と気づいたときのような、耳鳴りが急に止んだときのような、我に返る感覚。
俺、改め僕の目の前にはお嬢さまがいらっしゃり、その石榴色の大きな目を見開いてこちらを見詰めていた。
ぱかりと開けられた小さなお口には辛うじて手が添えられ、緩く編まれた若草色の髪が肩から零れている。こんな状況でもお嬢さまは可憐だ。
こんな状況でも……自由落下の途中で不自然に停止したソーサーを取りたいのに、今指一本でも動かせば、たちまちソーサーは破片と化してしまう。
予感めいた警告に、僕は不自然な体勢のまま硬直していた。
そして周囲の人々も驚嘆によって硬直していた。
「…………~~~もう無理ッ」
パリーン! 脱力した僕に合わせて、いっそ清々しいほど軽快にソーサーが敷石の上でバラバラに砕ける。
不祥事を速やかに隠蔽したいのに、何故だろうか目が回って立ち上がれない。
貧血のような立ち眩みに、屈んだ頭上でかわされる言葉の応酬がわんわん響く。
ぐいと肩を掴まれ、爽やかな印象の少年に顔を覗き込まれた。
「ベル、大丈夫か!?」
「今、ミュゼット嬢とアーリアがミスターを呼びに行ったよ」
更にひょこりと顔を出した穏やかそうな少年が、割れたソーサーを拾おうと屈み出す。
待て待て、あなたこの国の王子様だから。
客人の殿下に使用人の仕事させられませんから!
「殿下、お仕事泥棒の刑罰は?」
「…3日分口利かない刑、だったっけ」
即座に両手を肩まで上げた殿下が、苦笑いを浮かべて無害を表明する。
微かながらも発した剣呑な僕の反応に、爽やかな少年が安堵したように笑みを浮かべた。
「まあ何だ。ようこそこちらの世界へ?」
「やめてください、そんな花粉症患者の誘いみたいな言い方」
「お前って、たまによくわかんねー表現するよな」
「これでベルも魔術師だねー」
ははは、笑った少年が僕を立たせ、控えていた年上のメイドさんがささっと後始末を済ませる。
すみません、小さく謝罪すると、ほんのりとした苦笑いとともに、即座に下がってしまった。ああ…っ。
「ベルナルド。ミスターオレンジバレーよりお話があります」
お嬢さまの侍女であるアーリアさんに呼ばれ、顔から血の気が引く。
ミスターオレンジバレーは爽やかな名前に反して、この屋敷を取り仕切る執事であり、いつも優雅に微笑んでいる人だ。
あの人と話をしていると、手のひらの上で踊らされてる感覚に陥る。
表のボスが旦那様なら、裏のボスは彼だ。
恐らくソーサーのことを怒られるのだろう。消沈する僕の肩を、少年と殿下が景気良く叩いた。
「いってらっしゃい、ベル!」
「大丈夫だ! ミスターなら皿の一枚くらい、はははって見逃してくれる!」
「本当にそう思います? あのミスターが相手ですよ?」
「……いけるいける!」
そこは最後まで明るい励ましにして欲しかった。底抜けに明るく見送って欲しかった。
若干頬を引き攣らせたふたりは正直で、僕は益々肩を落としてミスターの部屋へと急いだ。
*
木製の扉を数度叩き、「失礼します」硬い声でノブを捻る。
ミスターはいつもの執務机の前におり、いつも通りの柔和な笑顔で僕を迎え入れた。
「ようこそ、ベルナルド。早速だが、これにサインしてくれないかね?」
机の上を滑った一枚の用紙に視線を落とし、ぎくしゃくする心臓を宥めすかす。ミスターが、「君は本当に私のことが苦手だね」微笑んだ。
いえいえまさか。底知れなさに対する畏敬の念ですよ。
文字の読み書きは教わっているため、そこに並べられた文章は難なく読み取ることが出来る。
どうやら解雇の話ではないらしい。それだけで心底ほっとする。
渡された万年筆を握り、瞬きとともに文字を飲み込んだ。
「……ミスター。僕の見間違いでなければ、僕の名前の後ろに『オレンジバレー』ってついているんですけど」
「そうだね。私とお揃いだよ」
いや、お揃いって、そんな可愛らしい言い方されると、別の意味で心臓飛び跳ねますよ。
のほほんと書類を覗き込む初老の男性が、顎に手を当て頷く。
彼の名前はヒルトン・オレンジバレー。このコード公爵家の執事だ。
白髪寄りのロマンスグレーの頭髪は上品に撫で付けられ、加齢のためかくすんだ色合いの青の瞳は、笑みの形を保っている。
シンプルな黒の燕尾服は身長もあり、縦に細長い。
穏やかで柔らかい物腰。しかし仕事は一歩も二歩も先にこなす上、物事に柔軟に対応する姿勢。正に執事の鑑だ。
僕も彼に憧れている。例え裏ボスであろうと憧れている。なので物凄く緊張する。
「君が私の養子になることについて記載したのだが、言葉が難しかったかね?」
「養子!?」
「おや、嫌だったかね? ベルナルド・オレンジバレー。良い響きだと思うが」
うんうん、満足そうに頷くミスターが、「クマとオレンジの谷か。メルヘンだな」呟く。
僕、一生この名前忘れない。例え何回記憶喪失になろうと、この日の羞恥を忘れない。
ぷるぷる震えながら背の高い彼を睨みつける。優雅な咳払いをひとつ、いつもの微笑で見下ろされた。
「お嬢様から君が魔術を発現したと知らせを聞いてね。この国では魔術師は皆ユーリット学園で修練を積まなければならない。そこはわかるね?」
「はい」
そういえばそうだった。ミスターからのお呼び出しに完全に震え上がっていたので、すっかり忘れていたが、そういえばそんなことがあった。
恐らく僕が行使したのは闇の魔術だろう。
決して時間や空間を止めたわけではない。落下し、膨らむ影の大きさを押し留めていただけだ。
なのであっさりと重力に負け、ソーサーは割れた。
「そこで君の保護者……身元引受人が必要でね。丁度私も後継者を育成したかったところだ。
君は見目も良い。身長は……祈るとしよう。そのような都合が重なって今回の話になったのだが、如何かね?」
にっこり、目許の皺を深めてミスターが微笑む。その言葉の通りだとするなら、こんな幸運は他にないだろう。
柄にもなく紅潮する頬を無視して、速まる心臓を服の上から押さえる。早口になりそうな言葉を落ち着けた。
「孤児の僕が、このような待遇を受けて、本当によろしいのでしょうか?」
「君はもう立派なコード家の使用人だ」
「これまで以上に、お嬢さまにお仕えすることは出来ますか?」
「お嬢様の侍女はアーリアだが、君の紅茶の腕が上がれば、指名がもらえるかも知れないね」
「なります!」
満足そうに微笑んだミスターが、もう一度書類を差し出す。躊躇うことなく綴った自分の名前。
この日から僕は『ベルナルド・オレンジバレー』然る乙女ゲームの攻略対象となったのだった。
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