シーン6:学生寮

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シーン6:学生寮

 保健室から場所は変わって、学生寮の最上階。  慣れ親しんだリヒト殿下のお部屋のにおいに、とんでもないところへ担ぎ込まれてしまったと青ざめた。  渋々、まぶたにいる幻覚の話をすると、確かにそこにみなさんがいるはずなのに、重たいため息以外の音が消えてしまった。 「あ、あのぅ……」 「いつからだ?」  坊っちゃんの端的なお声に、うぐ、口ごもる。  包帯で覆われた目許は光を遮断し、人形の輪郭を塗りつぶしていた。 「こうなったのは、午前中、空中庭園から戻ったあとです。……その、赤い花畑を、探していて……」 「それって、ベルの部屋から見えた、あの群生地のこと?」 「間借りしているだけなので、あのお部屋は殿下のお部屋ですよ。はい、あの花畑です」  リヒト殿下の言葉に注釈をつけ加え、この階層から見える景色を思い出す。  突然咲いて、突然消え去る、遠くからしか見えない花畑。  赤色一色のそれは鮮やかで、けれどもこれまで、花びらの一枚すら見つけたことがない。 「あ! そういえば、フィニール先生から新しい怪談を教えてもらったんです」 「それどころじゃないだろう! 何を悠長なことを言っているんだ!?」 「す、すみませんっ、坊っちゃん!!」  隣から聞こえた叱責に、びくりと肩を震わせて謝罪する。  ううっ、見えないって、本当に不便だ……。 「……ねえベル。フィニールは何て言ってたの? その怪談、教えて?」  リヒト殿下の探るようなお声に、ふえぇ、内情を震わせる。  絶対今、スナイパーされてる……。  殿下の灰色の脳細胞が、活発に推理している……。 「件の七不思議のひとつです。『死者の花畑』というそうで、赤い花畑だと思って近づくと、実は血塗れの手首で、掴まれて引きずり込まれるそうです」 「ピンポイントじゃねーか……。ベル、花畑探しは諦めろ」 「ううっ、そこからは見えるのに……」  クラウス様の呆れ声に、しょんぼりと肩を落とす。  ふむ、リヒト殿下の吐息を聞いた。 「本当にピンポイントだね。建物の構造から考えて、件の花が見えるのは、学生寮の8階と9階……7階もかな? 食堂は講堂よりも背の高い建物だからね」 「僕の部屋は7階にあるが、階層自体、食堂の方角に窓はない。壁だ」 「じゃあ8階と9階。8階はエンドウだけだから、実質9階のベルの部屋からしか見えないんだね」  エンドウさんの性別って、本当謎だなあ……。  あの方、ヒロインなのに……。 「エンドウさん、男子寮の8階にいらっしゃるんですね……」 「特例だからね。本来は8階を無人にしないといけないんだよ」  初耳だ。通りで8階が静かなわけだ!  リヒト殿下の声に、なるほどと得心する。  ……いや、だから僕は間借りしているだけで、9階のあのお部屋はリヒト殿下のお部屋ですからね? 「何故8階は無人なんだ?」 「この階の音が聞こえないように、だよ」 「それで殿下のお部屋は、音がさみしいんですね」 「ぼくも隔離されて、さみしいよ」  殿下の苦笑いに、心がきゅっとする。  さては僕、殿下に甘いな?  講堂は劇場を兼ねている。  3階席まで設けられているが、実際はそれ以上の高さがあるのだろう。  屋上の空中庭園からは、遠くの景色まで見渡すことができる。  訓練場のある食堂の棟は、講堂よりも高く、今日も空中庭園から見上げていた。 「じゃあ何だ? 食堂の上にその花畑とやらがあるのか? 登り口なんてあったか?」 「見取り図とかがあれば、一発でわかるんだけどね」  クラウス様の疑問に、リヒト殿下がうーんと唸る。  ぱんっ、手を叩く音がした。 「この話はここまで。……ねえ、ベルは『対立の子どもたち』って、知ってる?」 「ッ、殿下!!」  深刻な声音で話しかけられ、首を横に振る。  クラウス様の焦ったお声に、嫌な予感しかしない。 「アルバートも、よく聞いていてね。対立戦は心身を消耗するものだったでしょう? ぼくたちはミュゼットのおかげで死亡者がいなかったけど、過去これまでの対立戦は、多くの犠牲を出していた」  文献で読んだ、対立戦の話。  ひどく惨いそれは、あっさりとした数字で犠牲者の数を一覧していた。  そして身近にいる対立戦経験者。  ……フェリクス教官の顔の傷は、対立戦で負ったものだそうだ。  ジル教官は、当時の記憶をなくしている。  ヒルトンさんは、魔術を使うことを忌避するようになった。  それぞれが、何かしらの不和を抱えている。 「その中で、特に精神に傷を負った人たちを、『対立の子どもたち』というんだ」 「精神、ですか」 「うん。ベルみたいに幻覚を見たり、記憶の中で対立戦を繰り返したり。現実との境界が脆くなってしまって、事件を起こす人が続出したんだ」  リヒト殿下は温和なお声のはずなのに、背筋が冷たくなる。  膝の上の手をかたく握り、つっかえる喉で応答した。 「対立戦後に、クラリス精神病院に入ったでしょう? あの施設の本来の目的は、症状の出た子どもたちの保護だよ」 「……では、僕は、クラリス精神病院に入る、と……?」  喉が干上がるような感覚がある。  そんなっ、僕はお嬢さまをお守りしなければならないのに!  今が一番お嬢さまの御身が危険なのに!  震えた僕の発言のあと、しばらくの間があいた。  リヒト殿下が、小さく吐息の音を立てる。 「……ベルは安息型だからね。ベル自身が問題を起こすというより、弱ったベルの周囲が問題を起こす、かな」  あーっ! やけを起こすようなお声と、立ち上がる音が重なる。  リヒト殿下の早口が聞こえた。 「どうしよう、ベルがクラリスに行っちゃったら、ぼく平常でいられる自信がない……!」 「殿下、そこは平常心キープしてくださいよ」 「だってだよ、クラウス! ぼくの世界の中心はベルなのに、そのベルがいないんだよ!? 考えられる!? 考えられないでしょう!?」 「自己完結してんじゃないっすか!! もう俺、ベルの護衛にジョブチェンジするんで! 殿下とリズリットという破滅の覇者からベルのこと守るんで!!」 「やだー!! ぼくも一緒にいたいー!!」  突然のだだっ子の降臨に、唖然と目の前の応酬……って見えないんだけど。を傍観する。  わっ! 嘆く声が聞こえた。 「今までこんなにベルに依存し切った生活を続けてたんだよ!? 突然ベルがいなくなるだなんて、ぼく絶望のあまり王都くらいなら余裕で消し飛ばしそう!!」 「やめてください、殿下! これから情操教育って間に合いますか!? まずは絵本の読み聞かせからはじめますので、やさしい子に育ってください!!」 「ベルのいない世界に価値なんてある!? ないでしょう!? ぼくの世界はベルでできてるのに! ベルさえいれば、他になにもいらないのに!!!」 「主成分変えませんか!? あと僕、死んでないんで!!!!!」  クラリス精神病院って、お墓かなにかなのかな!?  一度入ると、二度と出てこられない監獄かな!?  あと、どうやったら殿下の認知の歪みを正せるんだろう!?  リヒト殿下が終末を唱える傍らで、坊っちゃんのぽつりとしたつぶやきが耳に届いた。 「——そうか。誰にも触れられないよう、箱に詰めればいいのか」 「アルバート、お前もか」  クラウス様のお声に絶望が乗る。  お隣の坊っちゃんにきつく手首を掴まれ、困惑に戦慄いた。 「ぼ、坊っちゃん……?」 「領地に帰るぞ、ベルナルド」 「坊っちゃん、あの、僕、箱詰めにされて出荷されるんですか?」 「ははっ」  笑って誤魔化さないでください、坊っちゃん……!! 「だめ! アルバート、ベルを王都から出さないで!!」 「ここは人が多い。それにただ治療するだけだ。そうだろう?」 「……え? 僕、永劫箱詰めにされるんです? 進路希望は食パンだった?」 「誰かあああああ!!! 清涼剤!! 鶴でも一石でも何でもいいから、この場をおさめてくれえええええ!!!!」 「リヒト!! ……ごめん、やっぱ帰るわ。邪魔したな」  ばあんッ!! 激しい音を立てた扉とギルベルト様のお声が、即座に回れ右する。  クラウス様が動いた。  ぐえっ、ギルベルト様が苦しそうに呻く。 「なあギル。お客様の中に、正気の方はいらっしゃいませんか?」 「くっそ!!! お前! この借りはでかいからな!!!!」  ずんずんとした靴音が乱雑に窓を開け、ギルベルト様が深く息を吸い込む音を立てた。 「リヒト!! お前の子ども時代の恥ずかしい失敗談と、アルバート!! クラスメイト視点でめちゃくちゃお前を褒めちぎったプレゼンを! ベルナルドに聞かれたくなければ、今すぐ正気に戻れ!!!」 「やめろッ!!」 「ギルやめて……っ、せめて窓閉めて……!」  なんですか、それ! すごく聞きたいです!!  ギルベルト様のハキハキとしたお声に、坊っちゃんの拒否と、リヒト殿下の弱々しいお声が重なる。  混迷していた空気に、清涼剤が投下された瞬間だった。
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