色のついたお酒

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色のついたお酒

 残り3日。  重苦しい気持ちで迎えた朝はいつも通りで、お嬢さまと坊っちゃんに挨拶するヒルトンさんも、いつも通りだった。  微笑み返すお嬢さまは当然何もご存知ではなく、誰にも打ち明けられない胸中に視線を俯ける。  ヒルトンさんが何を考えているのか、わからない。  午前の内に、ヒルトンさんに護衛を探しに行くと申し出て、門限の約束をさせられる。  何度も頷く僕へ胡乱な目を向けた彼が、徐にポケットから懐中時計を取り出した。  金具を外し、僕の手へ乗せられる。 「時計がない、などと言い訳されても困るからね。それは君が持っていなさい」 「……ありがとうございます」  俯いた頭をくしゃりと撫でられる。  ……幼い頃、お茶を淹れるヒルトンさんの、懐中時計を取り出す仕草に憧れ、かっこいいとはしゃいでいたことを思い出した。  当時の僕はまだ小さく、懐中時計は重たかったため、ご縁はなかったが。  右手に乗った重みをポケットに入れ、ヒルトンさんがベルトに鎖を繋いでくれる。 「良く似合っているよ」笑う彼の顔は、僕の首を絞めた人物と同じ人だとは思えなかった。 「あの、ヒルトンさん」 「何かね?」 「……松葉杖、今日だけ置いていっても、いいでしょうか……?」 「…………」  にっこり、笑った彼が威圧感を込めて腕を組んだ。  何とかヒルトンさんを言いくるめ、乗り合い馬車に揺られる。  目的の場所に降ろしてもらい、肌寒さの増した空気にジャケットの袖を引っ張った。  少し治安の悪いこの道を、コード邸の制服で歩くのは、勇気がいる。  普段なら何ともないが、これ以上怪我を悪化させたら、今度はどんな負荷をかけられるのかわからない。  辿り着いた一本の細道を前に、深呼吸する。  左の三角巾を外して内ポケットに仕舞い、日の差し込まないスラムの入り口を潜った。  進むにつれて感じる視線と、つんと鼻を刺す異臭。  あと初めて感じた三角巾の偉大さに、出来るだけ左腕を動かさないよう意識して奥へ踏み込んだ。  薄れた記憶を頼りに、右に左に角を曲がり、道に転がるかつての自分を通り過ぎる。  ここでのルールは無意識が覚えている。  不必要に目を合わせてはいけない。  最後の角を抜けたその先に、古びた教会があるのを見つけた。  こじんまりとしたその建造物の、礼拝堂の扉を迷わず開ける。 「枢機卿(カーディナル)」  僕は彼の名前を知らない。  みんな「枢機卿」と呼んでいた。  本当にその役職なのか、誰も知らない。  けれど、スラムの人たちの間で彼は、枢機卿だった。  奥の扉から、司祭平服を纏った男性が顔を出す。  眼鏡をかけた細面の顔をこちらへ向け、意外そうに声を上げた。 「これは驚いた。死んだ子にそっくりだ」 「お久しぶりです、枢機卿」 「はいはい、お久しぶり。退魔がお望みかな? それとも除霊?」 「まだ生きているので、勝手に殺さないでください」  講壇に行儀悪く頬杖をつき、枢機卿が手で払う仕草をする。  中々に失礼な動作に、彼から少し離れた長椅子に腰を下ろした。  眼鏡越しの不躾な目が、僕を頭から爪先まで見下ろす。 「それで、コード家の使用人が何の御用でしょうか」 「『鳩』を買いに来ました」  淡々、言葉を紡ぐ。  男は一瞬驚いたように僕を見、次いでくつくつ笑い出した。  壇上から彼が降りる。  良く磨かれた黒い靴が、軋んだ板張りの廊下を踏んだ。 「金貨1枚で許してあげよう。とっととお帰り」  脅すように背凭れを掴み、男が僕に顔を近付ける。  淡々と、内ポケットから硬貨を取り出した。  痛みを顔に出さないよう、4枚の銀貨を椅子に並べる。  男の顔色が変わった。 「坊主、ふざけてるのか?」 「あなたが僕を売ったお金があるでしょう。足したら丁度良くなるんじゃないですか?」  分厚いレンズ越しに睨みつけ、静かな声音で問い掛ける。  枢機卿が鼻で笑った。  銀貨を挟んだ彼が、神に仕えているとは思えない顔をする。 「死に掛けのガキ代合わせたって、たんねーよ」 「あのときの僕は、まだ健康体でした」 「だとしても足りねえ。あと銀貨10枚は寄越しな」 「あなたが見込めなかった分の、僕の価値です。残念でしたね、計算ミスです。足したら金貨1枚ですよ」  蹴られた木製の長椅子が、激しい音を立てる。  ひょいと避けたそこから、跳ねた銀貨が転がり落ちた。 「あなたに教わった経験が役に立っています。今、とても良くしてもらってますから」 「はッ、何枚猫被ってんだ? ガキの頃はもっと無邪気だったじゃねぇか」 「枢機卿ほど裏表激しくありません。今でも僕は無邪気です」 「無邪気は自分で無邪気なんて言わねぇよ」  苛立たしげに長椅子に腰を下ろし、脚を組んだ男が、懐から小箱を取り出し投げ捨てた。  慣れた手付きで、葉巻の先端をシガーカッターで切り落とす。  銜えたそれへ火をつけ、男がこれ見よがしに煙を吸った。  昇る紫煙に、思わず顔をしかめる。 「……やめてください。においが移ります」 「ガキの頃は、『カーディナルの葉巻のにおい、すきー』とか言ってたじゃねぇか」 「社会を学んだんです。それより、僕は交渉しています」 「へーへー」  やる気なく葉巻を指で挟んだ男が、椅子に残った銀貨を親指で弾く。  高く澄んだ音を立てたそれがくるくる回転し、男の手中へ落ちた。  ごそごそポケットに硬貨を突っ込んだ彼が葉巻を銜え、何を思ったのか突然僕の左手を取った。  引っ張られる痛みと、葉巻を外した口に、咄嗟に右手で相手の顔を押し除ける。  別方向へ吐き出された紫煙に、腹立たしい思いが込み上げた。 「枢機卿ッ!!」 「へーへー。俺だってこんなちんちくりんより、グラマラスな姉ちゃんと……」 「仮にもここが何処かご存知で?」 「委員長かよ、堅っ苦しいなあ」  ぼりぼり頭を掻いた男が煙を昇らせる。  徐に立ち上がった彼が壇上へ戻り、講壇から分厚い何かを引き摺り出した。  間違いなく聖書でないそれは、何かの名簿のようだった。  一枚の黄ばんだ紙を引っ張り、彼がひらひらそれを振る。 「ハイネ」 「……こちらの希望を聞かないまま決めて、良いんですか?」 「コード卿は倹約家。二年前の襲撃。執事のオレンジバレー。強くて話のわかる護衛が欲しい」 「………」 「テメェが『鳩』になるなら、もっと良い奴紹介してやる。怪我も治りゃ、使えんだろ」 「その方とはいつ都合がつきますか?」  この人、さては知っていて怪我してる方を引っ張ったな?  舌打ちした枢機卿が「来週」と宣ったので、「今日か明日で」笑顔で注文をつけた。  頬を引きつらせた彼が残した小箱から、新しく葉巻を取り出し、先を切ってやる。  愛想の良い笑みで差し出すと、ますます彼の頬が引きつった。 「テメェ、今すぐ戻って来い。娼館に売り飛ばしてやる」 「いたいけな10歳に何喚いているんですか。駐屯所に突き出しますよ」 「死人にクチナシってのは嘘だな。少し黙ってろ」  紫煙を撒き散らせていた葉巻を、男が力任せに灰皿で磨り潰す。  澄ました顔で枢機卿の口に葉巻を押し込みマッチで火を灯すと、真っ先に顔に煙を吹きかけられた。  ……煙たい。これの何がいいのかわからない。  けほけほ噎せながら、右腕で鼻と口を塞いだ。 「……ひどい、煙たい……」 「東区『Melissa』20時。パパに連れてってもらえ、マセガキ」 「……ありがとうございます、枢機卿」  今度こそ本気で追い払われ、壇上から飛び降りる。  取り出した懐中時計はまだ乗り合い馬車の走っている時間帯で、急ぎ教会を後にした。  僕は昔、それこそお嬢さまに拾われる以前、あの教会でお世話になっていた。  決して配給や孤児院があったわけではない。  当時の僕には理解出来なかったが、枢機卿は『鳩』と呼ばれる人を育成し、身形の良い人に売っていた。  僕も『鳩』となるべくひとりだったが、ある日僕の所属していた縄張りは崩壊した。  そこで死にかけていたところを救ってくださったのが、お嬢さまだ。  逃げている最中、リーダーが「売られた」と言っていたから、枢機卿を強請るのに使ったけれど……。  幼かった上、よくわからないままボロボロになったから、詳しくは知らない。  リーダーや、当時一緒にいた友達の顔すら思い出せないんだ。  曖昧な記憶が断片的にしか残っていない。 『鳩』についても、正直よくわかっていない。  何だか便利で都合の良いもの、という認識を抱いている。  そんな曖昧なものに縋るのも如何なものかと思ったが、なにぶん時間がない。  ……ヒルトンさんに対抗出来る術を得たかった。  そもそもあの教会も枢機卿のことも、入り口の小道を見るまで忘れていたくらいだ。  枢機卿と話している内に徐々に思い出したけれど、僕の喋った内容の大部分がはったりだ。  今更ながら、動悸が煩い。度胸疲れる。  へたり込みたいけれど、この路地で弱みを見せると追い剥ぎに遭ってしまう。  心持ち早足で通路を抜けた。  そういえば、行きにあれほど感じた視線が、今は全く感じない。  不意に過去の規約を思い出した。  確か、葉巻のにおいをさせてる見慣れない人は、枢機卿のお客だから関わってはいけない、だったか。  広い通りに出て、改めてジャケットのにおいを嗅ぐ。  記憶から薄れた葉巻のにおいに、再び咳き込んだ。
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