【善人ほどに悪魔は寄りつく】

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【善人ほどに悪魔は寄りつく】

 悪魔という存在は名前の通り意地悪で、自らとは対称的な【ブツ】に近づきたがる。  つまり、善い奴。  だからこそ、この悪魔はセールスマンを装い、善人面もあからさまなT青年のアパートに訪ねてきた。  事実、Tはお人好しにも何の疑いもなく、普通の住人なら煩わしいはずの、悪魔のセールスマンによる訪問販売の説明に対して、懇切丁寧に接している。むしろ人の姿をした悪魔のセールスマンのトークに真面目に聞き入っている状態にも見えた。  さらには、わざわざ門前ではなく、部屋の中まで悪魔のセールスマンを案内して、飲み物すら出して対応するほど、Tは悪魔のセールスマンの話に食い込んでいた。 「なるほど、それがあなたの仰っている、最高にウマい味のコーティング・チョコ、ですか?」  テーブルを挟み対峙して座するTと悪魔のセールスマン。Tはテーブルに置かれた、ビニールで包装されたている、見た目、マーブル・チョコレートを一回り大きくしたそれを見て、興味津々に悪魔のセールスマンに尋ねた。  やや場違いのモーニング姿一式を着こなしている悪魔のセールスマンは、さらにインテリ感を植え付けさせるために着用している、ボストン型の黒縁眼鏡のブリッジを中指で軽く持ち上げると、 「はい、そうでございます。そちらの品が世界最高のウマさを誇る〈ビーンズ〉と呼ばれる、究極美味のチョコレート・スイーツでございます」 「究極美味、ですか」 「はい、YESでございます」  Tはゴクリと一つ、喉元を分かりやすく隆起させ唾を飲み込み、そのビーンズと呼ばれたチョコの粒を見入った。包装されたビニール袋の中からでも、白くコーティングされたそれからは、眩しい光沢が放たれていた。 「どうぞT様。ご試食の方を」  ニタリ、と胆汁質な笑顔を悪魔のセールスマンはTに食を勧めると、Tはリアクションも大きく、 「え!? 良いんですか」 「はい。こちらは試供品ですので」 「そ、それじゃあ、遠慮なく……」  Tはそう言うと気持ち指を震わせてビーンズを手に取り口に入れた。すると、その瞬間に口の中にこれまで味わった事のないフレーバーが広がった。  ウマい、ウマすぎる!  心の中でそう叫ぶT。  Tの味蕾では絶品の甘さ以上の不思議な感覚がイナズマのように走り、すぐにこれは常に食べてい続けていたいという依存性につながるともTは直感的に思った。実際、Tは既に、もう一つ食べたい、という欲望にかられていた。  悪魔のセールスマンはニンマリ笑顔で、Tの驚き半分の恍惚している表情をを見つめながら尋ねた。 「どうですか、T様? お味は」 「は、はい。予想以上の、何というか、凄い美味しさとか、うまく表現できないんですけど、一応はチョコの味がベースとなっているのは分かっているんですが……兎に角、超絶品という感じのスイーツといった感じで……そう、今まで食べた事のない味覚です」 「左様ですか。それではお気に入りになったという事で、良かったらこちらビーンズのサンプルを10粒ほど今の期間お贈りしているサービスをしているんですが?」 「ほ、本当ですか! じゃあ、ぜ、是非とも僕も頂ければ……」 「勿論。ただ、こちらこそ喜んで差し上げたいのですが……」 「……ですが?」 「一つT様にお伝えしなければならない事があるんですよ」 「何ですか?」  食べ過ぎると中毒になったりして、ビーンズの副作用的問題なのか? とTは予測したが、悪魔のセールスマンが答えた言葉は、Tの思っていた以上の予想外かつ奇妙奇天烈な言葉だった。 「実はそのビーンズを一つ食べる度に、何処かの誰かが一人死ぬんですよ」 「え?」 「信じられないかも知れないんですけど、そのような[副作用]が付いて回るんです。統計上の調査の上でも立証されているので」  統計上の調査ってどういう意味? とTは、一瞬、疑問に思ったが、悪魔のセールスマンはそんなTに怪訝の余地を与えないほど早さで饒舌に話を進めた。 「実を言うとですね、このビーンズ。とある発展途上国原産のカカオが使われてまして、そのカカオが栽培できるのはごく一部の部族の方々のみ。そして、その部族というのがシャーマン的といいましょうか、黒魔術のような秘伝の製法のような事でカカオの生産とビーンズの製造を行っているらしいんですよ。それでその美味しさの代償は、他者の死、という呪術によって成り立つのだとか。全くもってこの現代社会では信じ難い話ではありますが、はい」 「……じ、じゃあ、僕はさっき一粒食べたから、どっかの誰かが死んだという事ですか?」 「はい。残念ながら左様になりますね。先にこの件を伝えなかった事に、不愉快な点があったとしたら、こちらの不手際でので謝罪いたします」 「いや、謝罪も何もそんなことありえないでしょ。迷信や怪しい都市伝説の類にしか聞こえ……」 「はい、そうでございます。信じる、信じないはお客様のご判断に委ねていますので。たた、先ほども言いましたように、統計上の調査ではそのような結果が出ていますので」 「だ、だから、その統計上の調査って……」 「兎にも角にも、T様はサンプルをお求めしたという事なので、こちらの10粒のビーンズは置いておきます。また、後々に訪問いたしますので、お気に入りになったらご購入して下さい」 「あ、ちょっと……」 「それでは失敬します」  と悪魔のセールスマンは言って、部屋を出て行こうとすると、その悪魔のセールスマンを引き留めようとTは動いたが、それに構わず踵を返さないで悪魔のセールスマンは一礼して退室してしまった。  一人取り残されたT。 「ま、まさか、そんな……馬鹿馬鹿し過ぎる」  そのような独り言を呟いた後、しばらく佇んでいると、やがてTは再びテーブルの椅子に座り、目前に置かれた問題のビーンズという、究極美味、のお菓子を手に取りマジマジと見つめた。  未開の部族が作った菓子。確かにこのとてつもない美味しさは秘薬的な領域にも達しているかも知れないが、その、何だろう……そうは言っても美味しさの呪(まじな)いの代わりに、人一人が死んでいるなんて信じられない。結局の所、メイド喫茶に行って、『おいしくなーれ、ハートマーク』の類じゃないのか? それが過激にも一粒口にしたら、何処かの誰かが命を落とすなんて馬鹿らしいにも程がある。ぼ、僕は構わず食べるぞ!  半ば嘯いたような感情でビーンズと向き合うT。今一度、試供品のビーンズを手に取るT。それを口に含もうとするT。だが、指先が震えて手の動きも止まり、なかなか舌に運べない。  信じられるもんか……信じられるもんか……信じる方が無理って話だろ!  確固たる食への意志は、ビーンズを口にする事への躊躇を上回り、Tは勢いよくビーンズを投げ入れ、その後も、 「畜生! そんな冗談話に付き合って悩むほど僕は愚かじゃないぞ! 畜生、畜生、畜生! こうなったら全部食べてやる!」  と叫喚に近い声を発し、自暴自棄、というかやけくそな状態でビーンズを次々と口にほうばるT。  あっという間に10粒食べ切ったT。どうしてか息を乱して、眼孔も見開いている。究極美味の余韻に浸っているのか。  だが、逸品絶妙にして最大級の芳醇を味わったというのに、気持ちがすぐれない。麻薬的な美味しさを感じながら、罪悪感が胸襟に広がる奇妙な心理状態。いや、麻薬的というより、実際に麻薬を摂取しながら快楽を得て、それに背徳感をも覚える人間心理。それに似たコントラディクションな思いにTは襲われる。  そして、心に訪れるのは慙愧(ざんき)と後悔。  その哭慟(こくどう)は人一倍に生真面目で善人なTにとっては、余りにも重たい枷になった。  10粒全て食べ尽くした頃には椅子から転げ落ち、床に頭を何度も打ち付け、 「だってウマいんだもん! 美味しんだもん! と、止まらないよ、そりゃあ! あんな……あんな……あんなのって反則だよ」  泣きじゃくりながらTは、今この時も10人が何処かで死んだのか……と思い込み、もはや妄信状態になり、精神の平衡を保つ事が出来ないでいた。  駄目だ……僕はもう罪深き存在の何者でもない。これは決して許される所業じゃない。  そんな絶望感が横溢する思案にふけると、Tはゆっくり立ち上がって、台所にある包丁を手にして喉元に当てたのだった。  銀色に光る刃物のそれを。  悪魔のセールスマンは大人の嗜み、という事で喫茶店に行って、ブラックのコーヒーを苦々しい顔で飲んでいた。  毎度の事だが、どうしてもこのコーヒーってヤツは飲めん。こんな苦いだけの液体を何故に人間どもは口にするのか理解に苦しむね。こんなの飲んでいたら、寿命が縮まってしまうわ。いやはや、死が近くなる。不死の悪魔だけど。  胸の内でブラックのコーヒーに対して愚痴をこぼす悪魔のセールスマン。 「ま、この広い世界中、病気やら老衰やら何らかの形で1秒の間に二,三人死んでるから、そりゃあ何処かの誰かは死ぬわな」  そんな独り言を悪魔のセールスマンは呟くと、周りの客に気付かれない程の笑声を漏らした。  その小声に比しては、耳に付く甲高い笑いを。                             了    
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