今宵も冷めない熱を要求します

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「あの、先輩……この書類の確認、お願いできますか……?」 オドオドとした、か弱い声。 差し出された書類の紙を受け取りながら視線を上げれば、そこには自分より背も高いスーツの男がいた。 ……もっとも、年齢は私よりも年下で、会社での立場も私の方が役職的に上。 萎縮した態度をとられても、別段違和感はない。 「ありがとう、藤間くん。不備がなかったら、私の方からこのまま課長に提出しておくから、貴方はもう帰っていいわ。定時だし」 「は、はい。ありがとう、ございます……」 受け取った書類をデスクの脇に置いて、改めてパソコンに向き直り、明日のプレゼン用の資料を制作する。 急に入った会議用だとはいえ、もう少し早い段階で部下に依頼出来なかったのかと、自身の上司に思うところはあるが、愚痴を吐いている暇があるのなら手を動かして終わらせたい。 浅く息を吸って、淡々とキーボードをタイピングしていく。 部署に設置された時計が音を鳴らしたのは、そんな時だった。 「定時であっがり〜! お疲れ様で〜す!!」 この時を待っていたと言わんばかりに、隣のデスクに座っていた同僚が立ち上がり、起動させていたパソコンの電源を落とす。 「さー、メインイベントはここからよー! ……あ。アンタも来る? 合コン」 「パス。あと2時間でこの資料完成させたいから残業する」 「えー! マジで?」 「マジ。部長が明日までに完成させてくれるなら残業手当て付けるって言ってくれたから、なら、いいかなーって」 こんな会話を続けながらも、私は視線をパソコンの画面から離すこともなければ、手を止めることもない。 そうしても同僚からの不満はないし、彼女もそんな私の行動を理解しながら会話を続ける。 「まぁ、アンタの要領の良さならあと2時間程で終わるだろうけど、アンタってそんなに仕事に献身的な熱血タイプだっけ?」 「そんなわけないでしょ。残業代が出なきゃ断ってる」 「だよねー」 「ま。今日は時間あったし、約束の時間までの暇つぶしも込みよ」 「……約束?」 同僚の彼女が私の言葉に疑問を持って聞き返した時、私は一瞬だけパソコンの画面から目線を逸らした。 僅かだけど上げた視線の先では、目の前のデスクで帰り支度をしていた藤間くんの肩がピクリと跳ね上がった。 多分、他の人には分からない。何度も彼を見ている私だから分かる、小さな変化。 「デート。新しい彼氏が、オススメのバーに連れて行ってくれるから、待ち合わせ時間までの残業ってわけ」 「新しい彼氏って……はぁ?! あんた、2週間前に付き合ってた彼氏は!?」 「地元の幼馴染と再会して、彼女と付き合いたいから別れてくれって言われて、それ以来音信不通。だから新しい彼氏」 「アンタって、モテはするんだけど長続きしないわよね。しかも、大抵付き合ってから男の方がフッてくるとか……男見る目、大丈夫?」 彼女の深い意味のない問いかけに、ふと考え込んでしまう。 自分の男を見る目について。それに狂いはないか。自分に合った最高の男を見つけられているのか。 自問自答の結果……答えは、イエスだ。 「当たり前でしょ。私はちゃんと、好きな男を見極めているわ」 私の言い切った返答に、同僚が反論する事はなかった。 代わりに、相手はどんな男で、何時に集合で、どこのバーに行くのかと、興味本位で事細かに聞かれたので、作業の片手間に淡々と答えた。 定時上がりで社員が減っていく部屋に、私たちの会話は少し内容が漏れる形で行われ、ひとしきり聞き終えた彼女は未来の夫を捕まえに合コンへと向かった。 「あ、あの……先輩……」 「何? 藤間くん」 何をしていて最後まで残ったかは知らないが、私以外で部屋に残っていた藤間くんに声をかけられ、少しの間手を止めて視線をパソコンから外し彼を見つめる。 といっても、彼の少し長い前髪によって目線が合うことはなく、ただぼんやりと彼の顔を見つめる。 「えっと、その、あの、ですね……」 何かを言いたいのは分かる。だが、それが具体的な言葉にされることはない。 もしかしたら、時間を少しおけば言葉が出るかもしれないと思って待ってみるも、そんな未来は来ずに、彼は口を噤んでしまった。 「……お先に失礼します。お疲れ様でした……」 「はい、お疲れ様。気をつけて」 ぎこちない笑みを浮かべて、足に鉛をつけたかのような足取りで帰っていく藤間くんを見送りながら、ふと思う。 自分は、彼と出会ってから1度も『また明日』と言って別れたことがない。 翌日もこの仕事場で会うと分かっていても、その言葉だけは口から出たことがない。 「……ま。ある意味当然か」 様々な事を考えた結果、この結論に達した。 また明日。 なんて言葉、私たちには必要ないのだ。 もっと言えば、そんな言葉を交わす事自体が無意味で、馬鹿らしい。 「さて。とっとと終わらせるか」 止めていた手を動かし、作業に戻る。 約束の時間も迫っていることだし、遅れるわけにはいかない。 それを楽しみに今日も頑張って仕事をこなしたのだから、自分にご褒美を与えたい。 「……早く、会いたいな」 思わず漏れた本音と笑み。 室内に自分以外の誰もいないことに安堵しながら、私は淡々と業務を進めた。
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