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「あちらのエレベーターで二階まで昇っていただき、すぐ左手にございます」
口の端を持ち上げるような笑顔で、総合案内の女性が指した先は、ロビーの奥に続く少し狭まった通路だった。
視線を戻し、どうも、と軽く頭を下げて、俺は窓口から離れた。
手続き、順番待ち、退屈しのぎ──。どこに目を向けても、それぞれの目的でうごめく人でロビーは埋め尽くされている。覚悟はしていたが、ここまで混んでいるとは思わなかった。人と人の間をすり抜けても、さらに人が押し寄せてくる。
腕時計の文字盤は9時52分。約束の時間まであと10分もない。一本早めの電車に乗ったのだが、待ち時間を考えなかったのは誤算だった。
急がなければ……と足を踏み出して視線をあげたとき、前から歩いてきた女性とぶつかる寸前で咄嗟に身をかわし、ズキン──と響くような痛みが腰に走った。「すみません」と慌てたような声が後ろから聞こえたが、俺は振り返らずに通路へ足を向けた。
壁づたいを足早に歩きながら、額に浮く汗をスーツの袖で拭いとる。冷房が効いているとは思えないほどに体が熱い。無意識の内に握り込んでいた手にもうっすら汗が滲んでいる。ただ暑いからなのか、焦っているのかは、自分でもよくわからない。
窓に反射する自分の姿をチラリと見て、緩んでいたネクタイをきつく締める。寝不足で腫れぼった目を細めて笑顔を作ろうともしたが、わずかに息が漏れるだけだった。
通路の突き当たりにあったエレベーターの前には、かなりの人だかりが出来ていた。俺は少し離れた場所で足を止めて、上枠のホールランタンの点灯に目を向ける。階を降りてくるエレベーターに呼応するように、まるで心臓が沈んでいくように息苦しくなっていく。
扉が開くと我先に乗り込んでいく人の群れ。人と人の隙間から見える鏡に映る自分は、行くなよ──とでも言っているみたいに蒼ざめている。
「乗られますか?」中で誰かが俺に問う。怪訝な視線が俺に向けられる。
でも、食い縛った唇を開くことができない。そこから一歩も踏み出せない。
立ち尽くす俺を拒むように、エレベーターはゆっくり閉まっていった。
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