エレベーターに乗る前に

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10時4分。腕時計から目線を外し、俺は息を吐くように笑った。 ネクタイを外しながら、エレベーターの正面に設置されている長椅子にへたりこむ。そのとき初めて、腰の奥で脈打つような痛みに気付いた。 痛みは、疲れのせいなんかじゃなかった。騙し騙し貼り続けてきた湿布が底をついたとき、「病院で診てもらった方がいいわよ」と妻に提案されてしまうほど、誤魔化せなくなっていた。 エレベーターに乗れなかったのは、痛みのせいじゃない。差し迫る現実から逃げ出してしまうほど、俺は臆病者だったのだ。 「今日はすごく混んでるわねぇ」 椅子に座ってどれぐらい経ったのかわからない。突然、周囲の喧騒に紛れるように声が聞こえた。伏せていた顔を持ち上げると、右隣に座っていた女性が俺を見つめてにこにこと微笑んでいる。 俺よりずっと歳上の……50代ぐらいだろうか。ところどころ白髪の混じった髪は油でギトギトしていて、それになによりこの人は、いかにも病院用というような、ピンク色のパジャマを身につけている。 「私ねぇ、明日退院するのよ」 浮かべていた笑みをさらに深めて、女性が言った。 「……おめでとうございます」と抑揚のない声で返し、そのまま目を反らした。この人の喜ばしい話に付き合う余裕は、俺にはない。 「これ、あなたにもらってほしいの」 「……え?」 そう言って女性が胸ポケットから取り出したのは、一枚のカードだった。 「急に決まった退院だったから、テレビカードの残量かなり余っちゃったのよ。もし必要なかったら、お金に換金できるから、ね」 それなら自分で換金すればいいのに。とは思いながら、どこか頼まれるようなその勢いに圧されて、俺はカードを受け取った。それで気がすんだのか、うんうん、と女性は満足そうに頷いて椅子から立ち上がる。 わざわざこれを渡すために、この人はロビーまで降りてきたのだろうか。 背を向けて歩いていく女性に訝しげに視線を送っていると、パジャマの裾から垂れ下がっている透明の管に気がついた。その管は、白や黄色いパックに繋がる、点滴棒だった。
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