5人が本棚に入れています
本棚に追加
10時4分。腕時計から目線を外し、俺は息を吐くように笑った。
ネクタイを外しながら、エレベーターの正面に設置されている長椅子にへたりこむ。そのとき初めて、腰の奥で脈打つような痛みに気付いた。
痛みは、疲れのせいなんかじゃなかった。騙し騙し貼り続けてきた湿布が底をついたとき、「病院で診てもらった方がいいわよ」と妻に提案されてしまうほど、誤魔化せなくなっていた。
エレベーターに乗れなかったのは、痛みのせいじゃない。差し迫る現実から逃げ出してしまうほど、俺は臆病者だったのだ。
「今日はすごく混んでるわねぇ」
椅子に座ってどれぐらい経ったのかわからない。突然、周囲の喧騒に紛れるように声が聞こえた。伏せていた顔を持ち上げると、右隣に座っていた女性が俺を見つめてにこにこと微笑んでいる。
俺よりずっと歳上の……50代ぐらいだろうか。ところどころ白髪の混じった髪は油でギトギトしていて、それになによりこの人は、いかにも病院用というような、ピンク色のパジャマを身につけている。
「私ねぇ、明日退院するのよ」
浮かべていた笑みをさらに深めて、女性が言った。
「……おめでとうございます」と抑揚のない声で返し、そのまま目を反らした。この人の喜ばしい話に付き合う余裕は、俺にはない。
「これ、あなたにもらってほしいの」
「……え?」
そう言って女性が胸ポケットから取り出したのは、一枚のカードだった。
「急に決まった退院だったから、テレビカードの残量かなり余っちゃったのよ。もし必要なかったら、お金に換金できるから、ね」
それなら自分で換金すればいいのに。とは思いながら、どこか頼まれるようなその勢いに圧されて、俺はカードを受け取った。それで気がすんだのか、うんうん、と女性は満足そうに頷いて椅子から立ち上がる。
わざわざこれを渡すために、この人はロビーまで降りてきたのだろうか。
背を向けて歩いていく女性に訝しげに視線を送っていると、パジャマの裾から垂れ下がっている透明の管に気がついた。その管は、白や黄色いパックに繋がる、点滴棒だった。
最初のコメントを投稿しよう!