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俺はもう一度、女性が歩いていったフロアに目を戻す。
血管造影室や化学療法、麻酔科などの案内板が並ぶその広い通路には、どこか険しい顔をして、早足で歩いていく人であふれている。途切れることのないその流れの中で、濁流に立ち向かっているかのように、歩幅が小さい人達も、いる。
松葉杖をついて、片足を吊るした状態でひょこひょこ体を揺らしながら歩く男性。歩行器を握りしめて、慎重に足を踏み出す若い女性。自動販売機の前で、母親にオレンジジュースが飲みたいと泣き叫んでいる、ニット帽を深くかぶった小さな女の子。何か病気と関係して、ジュースさえ飲めないのかもしれない。
今なら、わかる。 ここにいる人たちはみんな、抱える何かと向き合って、闘い挑み、前を向いて歩いているのだと。
「俺も、荒波に呑まれてやるか」
カッコつけて出した言葉は、驚くほどすんなりと俺の乾いた部分に染みていく。胸が熱くなり、まぶたも重くなる。俺は慌てて顔を隠すように俯いて、膝の間で両手を組んだ。目を閉じると浮かぶのは、今朝送りだしてくれた、妻の笑顔だった。
これから向かう診察室で、一人で来たことを咎められるだろうか。絶望するのはまだ早いと、叱ってくれるだうか。妻に全てを打ち明け、ここにいる人達のように前を向いて歩けるだろうか。
自信はない。それでもやるべきことはある。俺に残された時間がどのくらいあるのかを、確かめなければならない。
今ならきっと、受け容れられる。
長椅子から立ち上がると、待ち構えていたように、目の前の扉が開く。
まずは……ここからだな。
テレビカードを強く握りしめて、俺はエレベーターに一歩を進ませた。
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