ランチタイムはお早めに

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「なあ、ラーメン食いたくない?」  突然の問いに、隣の席で必死でノートを取っていた倉田は「は?」と顔を上げた。 「・・・・なに、食いたいの?藤」 「うん」  講義の最中なので、、あくまで小声。  まるで教授の声など訊くつもりがないかのように、机にだらりと身体を預けたまま、藤は倉田を見上げた。  眼鏡の位置を直しながら、倉田は「じゃあ・・・・」と、言葉を続ける。 「経済学部のほうにある学食、いく?」 「うん」  藤たちが所属する文学部に近い学食は、カレーはうまいがラーメンはマズイ、と評判だ。  それとは反対に、経済学部の近くにある学食は、ラーメンはうまいがカレーはマズイ、と評判。  いわゆる、どっちもどっちってワケ。 「だったら真面目に講義、訊けよ?あとでノート貸してっていっても貸さないぞ」 「へいへい」  まあ、このあとラーメンが待っていると思えば、ノートくらい容易いことだ。  とりあえずはあと一時間、我慢すればありつける。  よし、と気合を入れて。  懸命にペンを走らせることに専念した。  経済学部は文学部からはかなり離れたところにある。  時間に余裕があるとき以外は、ここの学食を利用することはあまりしない。  本日は幸運にもこのあと講義がないから、ゆっくりとラーメンを堪能できるってワケだ。  すばらしきラーメン日和。  学食は予想通り混みあっていた。  いわゆるランチラッシュだ。  空席を見つけるのは少々至難の業のような気もする。 「藤、俺が買っていくから、場所確保しといてよ」 「ああー・・・・、けど、難しそう・・・・」 「おまえが食いたいっていったんだろ?なんだったら、あっちの学食のラーメンにするか?」  倉田は文学部のほうを顎でしゃくる。 「・・・・それは勘弁」  あっちの学食のラーメンのマズサはピカイチだ。  のびきった麺に、あきらかに水分を多く入れすぎたとわかるスープ。  どういう作り方をすればあの味になるのか、いまだに謎は解明されていないのだ。  恐いもの見たさで何度か食べたが、やはり恐ろしい食べものに変わりはない。  歪んだ自分の顔を見て、倉田は苦笑を洩らす。 「イヤだったら、さっさと場所取りいってこいよ」 「了解ー」  背中を押され、ラーメンを心ゆくまで堪能できる場所を求めて学食の中に入った。 「・・・・こりゃマジでないわ」  運良く見つかったとしても相席は間違いなし。  まあそれはいいんだけど・・・・というか、それすら危うい。  ここの学食は思ったより、狭い。  キョロキョロしながら歩いていると、ヒトや机にぶつかるし・・・・。  立ち食いラーメンだけは勘弁だな、なんてぼんやりと立ち尽くしていると、突然後ろから名前を呼ばれた。 「藤?」  経済学部の知り合いなんて心当たりがない。  けど聞き覚えのある声。  ゆっくりと振り返ると、女連れの見慣れた男が片手をあげていた。 「あ、相葉?」 「なにしてんだよ、うろうろと」 「空いてる席を探してんだよ」 「空いてるぜ」 「は?」 「ここ」  と、相葉は自分たちの目の前の席を指差す。  そこにはふたつの空席・・・・。 「・・・・座っていい?」 「どーぞー」  相変わらずの調子のよい口調で、相葉はにやりと笑った。  椅子に腰掛けつつちらりと様子を伺うと、ふたりの前には空になったラーメンどんぶりが置かれていた。  食い終わったあとでの談笑タイムだったらしい。 「こっちの学食にくるの、はじめてか?」 「いや、たまにくるよ」 「へえ、そのわりには見かけねえな」 「だな」  相葉と大学内で会うのははじめてだ。  というか、こいつがどこの学部なのかすら知らない。  でもここの学食を利用しているってことは経済学部なのか?  いや、でもここのラーメンのうまさは有名だから、利用しているのが経済学部の学生だけとは限らない。  現に自分だって出入りしているわけだし・・・・。 「相葉って、何学部?」 「は?」  あれ、なんかまずいことでも訊いただろうか。  相葉はおもいっきり、「わたし呆れています」という顔をして、ため息を吐いた。 「・・・・経済学部。前にいったと思うけど」 「そうだった?」 「ホント、おまえって人に関心ないのな」  苦笑している相葉に、すいませんね、と、おもわず肩を竦めた。  相葉とは一年位前から一緒にバイトをしている。  そのわりには自分は相場のことをほとんど知らない。  訊いてもどうでもいいことはすぐに忘れてしまう、という、都合のいい脳みそのせいかもしれないけど・・・・。  逆に相葉は人を観察するのが好きなようだ。  一度きた客はすぐに覚えてしまう、という、スバラシイ特技はそこからきている、と思っている。  そんなやりとりを黙って訊いていた相葉の彼女らしき女が、ふたりの顔を交互に見比べている。 「なに、知り合いなの?」 「そう、バイト先のオトモダチ」  オトモダチだったのか・・・・。  はじめて知る事実に相葉を見ると、にやにやと意味ありげに笑っている。  なんなんだ・・・・、と思っていると、相葉の彼女らしき女が、キラキラとした眼でこちらを凝視していた。 「え!?じゃあ、カナコが一目惚れした彼!?」  首を傾げて相葉を見ると、相変わらずのにやにや顔で相葉の彼女らしき女に向かって、そう、と、頷いている。 「え~、じゃあカナコも連れてくればよかったわね。会いたがってたでしょ~?」 「会いたけりゃ自分でなんとかするだろ」 「あんたね~、協力する気ないでしょ。トモダチなんだから少しは面倒みてあげなよ」 「めんどくせー、人の色恋沙汰に首突っ込む気ねぇよ」 「なによそれ~、はじめは紹介してやる、とかいってたくせに!」 「ああ・・・・気が変わった」  と、相葉はこちらを見て、不適に笑った。  相葉の彼女らしき女は少々ご立腹にようだ。  相葉の視線は、眼から、少し下に移る。  自分の眼にも、相葉の薄い唇が映る。  ゾクリ、と、体が痺れた。  一ヶ月も前のたわいもないキス。  戯言のついでに触れた唇が、すぐ、眼の前にあった。  なにも語ろうとしないその唇に、お互いの眼は釘付けになったように、動かなかった。 「あ!」  突然の相葉の彼女らしき女の声に、ふと、視線を逸らす。 「ケンゴと約束してたんだ~。やばい~!相葉、先にいくね!」  おう、と相葉が片手をあげるより早く、相葉の彼女らしい女は他の男の名前を口にしながら出口へと走っていった。 「相葉」 「ん?」 「あの彼女、二股してんの?」 「は?」  至って素朴な疑問をぶつけただけなのに、相葉はきょとんとした表情のあと、突然ふるふると肩を震わせはじめた。  いわゆる笑いを堪えているらしい。  笑わせることをいったつもりはないのに、眼の前の男はいまにも吹き出しそうな顔をしている。  訝しげに眉を顰めると、それに気づいた相葉が大きく深呼吸をして頬づえをついた。 「いいね~、藤のそういうとこ。ストレートで」 「は?」 「あいつは、ただのオトモダチですよ~」  嫌味っぽいいいかたは気に入らないが、これは相葉特有のもの。  一年間の間で、唯一知り得た相葉の特徴だ。  ふいに相葉が身を乗り出して、距離を縮めてくる。  薄い唇が、一緒に近づいてきた。  少しでも視線を下に落とすと、そこに眼がいってしまいそうで、藤は相葉の眼だけを見た。 「気になる?」 「なにが?」  意味がわからなくて首を傾げると、相葉はおかしそうに顔を歪ませた。 「ま、いいや」  と、相葉はあっさりと身を起こして、自分のと、相葉の・・・・いや、誰かの彼女らしき女のどんぶりを丁寧に重ねはじめた。  それを片手でひょい、と持ち上げて席を立った。  じゃあな、声をかけるより早く、相葉が口を開いた。 「今日も、バイトだよな」 「ああ」 「くる?」 「ああ」  こっちだって生活がかかっているのだ。  意味もなく休むほど、バカじゃない。  相葉がにやりと笑う。  不敵な笑いだ・・・・ 「そ。じゃ、またあとで」  そういい残して、颯爽と人ごみに消えていった。  なんだか、とてつもなくイヤな予感がよぎる。  なにかが起こりそうな予感が、頭を掠めた。  嵐の前の静けさ・・・・いや、こんな騒がしい場所で静けさもなにもあったもんじゃない。  だいたい、自分のカンほどあてにならないものはない。 「わりぃ、遅くなった。けっこう混んでてさ~」  唐突に飛び込んできた倉田の声に、腹の虫が小さく音をたてた。  そう、いまはラーメン。  ラーメンに適うものは、ない。  ひさしぶりに食べたラーメンは、やっぱり最高にうまかった。
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