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【別れ】
明け方4時過ぎ、電話が鳴った。実際には震えて起こされた。
画面には、母の電話番号。
「はい」
『呼吸が弱ってて、血圧も80台なの』
それは先日、姉も言っていたじゃないか。
『明るくなってからでいいから、病院に来て』
それはもう、覚悟しろと言う事か。
「わかった。仕事の調整してから行くから、ちょっと待ってて」
『お願いね』
それから眠れなかった。
一昨日と同じ症状なんだから、気にすることないのに。
☆
8時、一度会社に行った。
幸い係長が居て驚いていた。父が危篤と伝えると、何も気にしないで傍に居て上げなさいと言ってくれた。
残っている仕事を片付け、今日の仕事も頼めた。
しかしなんだかんで会社を出たのは9:30を回っていた。
慌てて電車に飛び乗り、降りた最寄駅からはバスとなる。
そのバス停で待っていると、頬に水滴が当たった。
空を見上げた、晴れているのに音を立てて雨が落ちてくる──まさに涙雨だろうか。胸が締め付けられた。
時刻表より遅れてきたバスに乗り、病院に着いたのは10:30になろうとしていた。
「ああ、よかった」
母と姉が居た。
横たわる父を覗き込む。
「来たよ」
視線が合わない──! そう思ったが、父はとてもゆっくり俺を見てくれた。
「うん、来た。大丈夫か?」
なんと声をかけてよいか判らず、適当な事を聞いていた。
死ぬな、とか言ってはいけないと思ったから。他に言葉が思いつかなかった。
「苦しくないか?」
父は俺を見るだけで、意思表示すらしない。
土曜日は、まだ会話になっていたじゃないか……!
父は天井をみつめている、口を開けたまま、瞬きすらしない。
それでも俺がじっと見ていると、僅かに唇が、正確には顎が動いた。
何か喋ろうとしていると見えた。
「うん、俺。来たよ」
何を話していいか判らず、そう答えていた。
姉と母は、父を挟んで話し込んでいた。父の妹が来るらしいが、まだ到着しないのを気にしていた。
「あ、また涙が」
父の開いたままの目尻から零れる涙を、姉がティッシュで拭き取る。
「死にたくないって泣いてるのよ」
母が溜息交じりに言う。
違うだろ、眼が開けっ放しだからだろ、とは言えなかった。
「叔母さん、遅いね」
「そうねえ」
女同士の会話は飛ぶのが難点だ。
そのとりとめもない会話を聞きながら、ふと、気付く──父、息してないんじゃないか?
認めるのが怖くて、俺は黙って父を見ていた。
母と姉も気付いた。
「え……やだ……!」
刑事ドラマみたく首筋に手でも当てればいいだろうに、誰も父に触れる事ができなかった。
呼びかけても反応がないのに、懸命に名前を呼んでいた。
姉に言われて、母がナースコールを押した。
看護師が静かに入って来て、父の胸に聴診器を当てた。何を聞いているのか、随分してから言った。
「そうですね……心臓は止まっているようです」
途端に泣き始める、母と姉。
俺は、僅かに目頭が熱くなっただけだった。
嫌いだった父が死んだ。俺が来て20分後だった。
「あなたを待っていたのね」
母が俺に言う。
死に目に会う、とはこの事なのか。
なんとか家族で父を見送れた。
人はこんなにも静かに死ぬものなのか。
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