彼女

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彼女

暑い。冷房で寒いぐらいの店内から出ると、一気に汗が吹き出した。日傘を店に忘れた事に気付いたが、戻る時間が無い。駅までの道を急ぐ。巨大な横断歩道の最前列に並び、信号が変わると直ぐに渡ろうと待ち構えた。母の入院している病院まではここから一駅。いつもの癖で腕時計を見るが、もう無いことを思い出し、スマホで時間を確認する。デジタル画像が10時54分と写し出している。退院は11時過ぎと看護師さんが言っていた。急がなければ。 大きなクラクションが聞えた。視線を上げるとトラックが目の前を通りすぎた。ふと、横断歩道反対側に立つ男性に目が止まる。私と同じ年ぐらいだろうか、20才前後、短めの髪、大きめの白いTシャツに黒のパンツ。頭上の看板を見上げている。どこにでもいそうなタイプだか、彼に見覚えがある気がする。 高校を卒業し、病弱な母を看病しながら働き続けてきたせいか、友達は少ない。どこかの店員だろうか。行きつけの服屋、美容室、カフェを思い出してみるが、どこにも彼はみつからない。 彼がこちらを見た。一瞬で目を反らしたが、確認するようにまたこちらを見ている。彼も私を知っているようだ。誰だったっけ。思い出したいが、暑くて思考がうまく働かない。もうすぐ信号が変わる。話し掛けてみようか。いや、こんな大きな横断歩道の対角線上にいては、人混みに紛れてしまうだろう。でも、なぜか思い出さなければいけない気がした。彼は誰。 横断歩道の信号が青に変わる。人混みをかき分け真っ直ぐ彼に近づく。しかし、押し寄せる人の波は容赦なく壁となり、彼を見失ってまった。私は交差点の真ん中辺りで立ち止まり、迷子のように彼を探す。しかしまた、人の波に流され、気が付けば反対側まで渡りきってしまった。 仕方ない、彼は知り合いだったのかどうかも分からない。私は母の待つ病院へ急いだ。 駅の構内にたどり着いた時、スマホが振るえた。母からの着信だ。病院の手違いで退院が午後からに延びたらしい。この日射し、母には厳しいだろう。私は忘れた日傘を取りに、あの古時計屋へ戻る事にした。
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