第二章 捜査

1/10
114人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ

第二章 捜査

   1.  どうしてこんなことになってしまったのだろう。  白の高級セダンに乗せられ、五分ほどが過ぎた。レザーのシートはふかふかで、昔母さんと一度だけ乗ったタクシーの座席を思い出した。母さんの愛車のオンボロ軽とは雲泥の差だ。けれど今は、はじめてタクシーに乗った時の感動をもう一度じっくりと味わえるほどの余裕はない。  左隣には百瀬がむすっとした顔で座っている。かぶっていたフードは取り去られ、薄暗がりでも眩しい金髪がどこか浮世離れして見えた。  運転席にはいかにもその筋の人っぽい派手な赤いスカジャンを羽織った、坊主頭の熊みたいな男。真後ろに座っている俺からは運転席の背もたれが壁になってその姿が見えないはずなのに、シートからはみ出しているいかつい肩と肘掛けに収まる太い腕が、うまく言葉にできない威圧感みたいなものをびんびん放っている。  端的に言って、俺は拉致された。百瀬龍輝と、その仲間らしき男に。  遡ること十数分前。    * 「百瀬……!?」 「――何だよ、三年前の事件って」 「え?」  俺の腕を掴んだ百瀬の第一声は、俺の想像とは大きくかけ離れていた。百瀬が苛立たしげに舌打ちをする。 「オレにわかるように説明しろっつってんだよ。三年前の事件ってのは何なんだ? 美姫が死んだことと何か関係があんだろ?」 「ちょ、ちょっと待て」  掴まれたままの手首をどうにか振りほどこうとしたけれど、百瀬の手に込められた力はまるで抜ける気配がない。 「痛いって。離せよ」 「逃げようったってそうはいかねぇぞ? 話はまだ終わってねぇ」  意味がわからない。とりあえず手が痛いから離してほしいだけだ。別に手首を掴まれていなくたって、ちゃんとした態度で話をしたいと頼まれればこっちだってそれなりに聞く準備を整えてやるというのに。  くそ、だんだん腹が立ってきた。主導権を握られるのは面白くない。 「……逃げてるのはおまえのほうだろ」 「は?」  たっぷりの棘を込めてそう言ってやると、百瀬はただでさえ悪い目つきをさらに悪くして俺を睨んだ。 「警察がおまえのことを捜してる。おまえが美姫を殺したんじゃないかって。みんな疑ってるよ。おまえならやりかねないってさ」  全部本当のことだ。何ならこのまま垣内さんのところへ戻ったっていい。というか、すぐにでもそうすべきなんじゃないか。警察に協力するのは市民の義務だ。  チッ、と百瀬は盛大に舌打ちをした。 「くそ……どいつもこいつも」  逸らした目には怒りの感情が灯っている。どうやら相当追い詰められているようだ。 「さっきの口ぶりだと」  掴まれた手首にちらりと視線を落としながら百瀬に言った。 「俺と垣内さんの話を聞いてたんだな? ということは、あの人が刑事だってこともわかってるはずだ。なら、俺が今から何をしようとして……っ」  言い終わらないうちに、百瀬が動いた。  右手は俺の左手首を掴んだまま、あいた左手を俺の首もとめがけて振り上げる。  その手に握られた何かがキラリと夕陽を反射して、一瞬目が眩んだ。 「オレを警察に突き出そうってか?」  ひんやりと、冷たい感覚が首筋に走る。  百瀬の左手には、短くも鋭利な刃を持つ一本のナイフが握られていた。 「ここから一歩でも動いてみろ――その口、二度と利けねぇようにしてやる」  ごくり、と生唾をのみ込まずにはいられなかった。全身の汗腺からじわりと汗が噴き出してくる。  突き上げるような鋭い視線から目を逸らすことは許されない。瞬きをすることさえ心が拒否し始めていた。一度でも目を閉じれば最後、次に見るのはあの世の景色かもしれない。  ――なんで。  どうして俺が、こんな目に遭わなくちゃならないんだ?  フリーのはずの右手はメデューサに石化されたかのようにぴくりとも動かない。足だって、伸ばせば百瀬まで余裕で届くのに。(すね)を蹴って胸を突き飛ばせばいいだけだ。そうすれば俺は、ひとまずこの場から逃れることができる。もともと逃げるつもりなんてなかったが、刃物まで持ち込まれちゃそうも言っていられない。相手は殺人犯かもしれないんだ。こんなところでおちおち殺されてたまるか。学校まで走って戻れば生徒相手に聞き込みをしている垣内さんがいる。百瀬にしたってそう遠くまでは逃げられないだろうし、この辺りは美姫の事件以来毎日のように警察官がうろうろしている。捕まるのも時間の問題だろう。  くそ。頭ではわかっているのに、体がまるで反応しない。スパイク練習の時と同じだ。この体はもはや、俺のものじゃなくなっていた。 「オレの質問にだけ答えろ。余計なことは考えるな」  真剣な目をして、百瀬は低く指図する。片や俺は、言葉すらまともに発することができずにいた。 「三年前の事件ってのは何のことだ? 美姫が殺されたのとどういう関係がある?」  俺の首筋にあてがったナイフはそのままに、百瀬はさっきと同じ質問を繰り返した。  ――知らないのか、百瀬は。美姫の彼氏だったのに。  美姫は割と自分の話をするのが好きな子だ。仮にも彼氏だった男にあの事件の話をしていないということは、優作の見立てが正しかったことへの証明になりはしないだろうか。  つまり美姫は、百瀬のことを信じていなかった。  なぜならば、百瀬を三年前の事件の犯人かもしれないと考えていたから。 「……どうしてそんなことを知りたがる?」  素直に答えてやる気にはなれなかった。仮に百瀬が事件と何の関わりもなかったとしても、美姫が疑っていた人間を真正面から信用できるはずがない。 「それを知って、どうしようっていうんだ?」  捜査状況を確認したいのか? たまたま刑事と話をしていた俺を見かけて声をかけてきた?  ……いや、待てよ?  そもそも、どうして百瀬はこんなところにひとりでいた?  人目につかない路地裏とはいえ、学校周辺に警察官がうろついていることくらいこの学校の生徒なら誰だって知っているはずだ。いくら学校に来ていない百瀬だって、事件のことを知っているのだからそれくらいの見当はつくだろう。それに、美姫と付き合っていたなら怨恨の線から自分に疑いがかかることだって容易に想像できる。思い返せばさっきだって『どいつもこいつも』と口走っていた。もしかしたら、警察だけでなく仲間内からも殺人の疑いをかけられているのかもしれない。だったらなおのことこんなところにいるなんておかしいのでは……? 「……オレじゃねぇ」  左手に握られたナイフの切っ先がわずかに揺れた。 「オレが殺したんじゃねぇ。どうしてオレが美姫を殺さなくちゃなんねぇんだ? ふざけんなよ……どいつもこいつも適当なことばっか抜かしやがって……!」  怒りに顔を赤らめ、悔しさに歯を食いしばり、苦しそうに息を吐き出す百瀬。とてもじゃないが、これが芝居だとは思えなかった。 「警察(サツ)なんて信用できるかよ。どうせろくに捜査なんてしやしねぇんだ。だったらオレが見つけるしかねぇだろ」  自らに言い聞かせているようなそのセリフに、俺はようやく百瀬の真意を悟った。 「百瀬、おまえまさか……?」  キッ、と百瀬の鋭い視線が突き刺さった。 「オレは美姫を殺したやつを捜してる――見つかったら、オレがそいつを殺す」
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!