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第1章 3話
やっと亮が門から出てきた。やはり表情はない。その時のできる精一杯の笑顔で加波子は言う。
「お疲れ様です。…じゃあ行きましょうか。」
加波子の踏み出す方向とは真逆を向く亮。
「公園、こっち。」
「あ、はい…。」
亮の二歩後ろを歩く加波子。それがその時の、ふたりの最短の距離だった。ふたりに会話はない。
やがて公園が見え、自動販売機を見つけた加波子は小走りで向かう。
「何がいいですか?ブラックでいいですか?」
加波子はブラックのボタンを押し、カンカンを亮に渡す。亮の表情は見ずに。
「えーっと私は…。」
加波子はカフェオレのボタンを押す。
そして公園に入るふたり。背もたれも何もない、コンクリートでできた二人掛けのベンチが2台ある。加波子は特に何も考えることなく、出入口に近い左側のベンチに座った。
すると亮は『あっちに行け』という仕草をし、加波子をもう1台の右側のベンチに座らせる。微妙な距離。なかなかふたりの距離は縮まらない。気まずい雰囲気をなんとかしたい加波子。
「あの、今日は突然お邪魔してすみませんでした。」
「気楽でいーですね。」
「え?」
唐突に亮は言う。
「どんな人かは知りませんけど、そんな高そーであったかそーなコート着て、あんなむさくるしい工場来て。暇つぶしですか。」
加波子はまともにしゃべっている亮を、この日初めて見た。嬉しくなった加波子。
「高そうに見えます??このコート!」
皮肉なことを言った自分に食いつく加波子に亮は驚く。そんな亮のことなど気にもせず、自分のコートを見ながら加波子は続ける。パステルの水色に少しだけ薄いグレーの絵具を混ぜたような、控え目な色のコート。
「高かったんです、このコート。私にとっては、ですけどね。ちょっと奮発しちゃいました。自分への誕生日プレゼント。」
一間置いて加波子は続ける。
「今日、私誕生日なんです。だからいつもとは違った特別な日にしたくて、傘を返しに行くなら今日って決めてたんです。」
加波子は目を輝かせたまま、バッグから手帳を取り出す。手帳の1ページに自分の名前とラインのIDを書いた。そのページをペリっと剥がし、亮に差し出す。
「井川 加波子です。ライン、待ってます。」
亮は持っていたカンカンをベンチに置き、その紙を受け取る。安心した加波子。しかし亮は、その紙をくしゃくしゃっとし、手と一緒にジャケットのポケットにしまった。
加波子はそれを見て見ぬふりをした。張りつめている感情が涙となって出てしまわぬように。
ひとり舞い上がった自分と亮との温度差を改めて感じた加波子。
加波子は小さなため息をつく。そのため息がほんの少しだけ白く見えた。それを確かめるため、加波子は少し顎を上げ息を吐く。1回、2回。今は11月、息が白い訳がなかった。加波子は遠い目をしながら囁くように呟いた。
「吐く息が白いと、あー生きてるんだなーって、思いますよね…。」
空をうつむきながら見る加波子。無意識のうちに出たその言葉が、亮の心に響いた。深く、深く。
加波子は下を向き、はしゃぎすぎた自分を恥じ、反省する。髪が垂れ、顔を覆う。それをいいことに、加波子は頭を動かさずに目線だけを亮に向ける。
そして加波子は見てしまう。見つけてしまう。亮の右手にはカンカン。左手はベンチに置いていた。遠くにある亮の左手。そしてその小指。関節ではない、もう一本の線。不自然に真っ直ぐで、真っ黒な線だった。
どんなに目を凝らしてもそれ以上ははっきり見えず、ましてや聞くことなどできるはずがない。だけど確かにあった、三本目の線。そのために自分を遠くに座らせたのではないかと加波子は思った。
「もう帰っていいですか。」
立ち上がる亮。亮の左手を見ていただけに、より驚く加波子。加波子も立ち上がる。
「はい!今日は本当にありがとうございました。」
頭を下げる加波子に対し、亮はまた皮肉る。
「もう用は済んだんですよね。工場に来て、コーヒー飲んで。」
「はい…。」
「じゃあもう来ないでください。ここにも、工場にも。」
亮は背を向けて歩き出す。初めに入った出入口とは反対の出入口に向かって。一歩一歩、遠ざかる亮。このまま終わらせたくない加波子。亮は飲み干したブラックのカンカンを、出入口近くのごみ箱に捨てる。
とっさに加波子はカフェオレを一気に飲み干し、少しむせながらそのカンカンを亮の目掛けて思いっ切り投げた。
コンッ カランカラン
当たってしまった。亮の頭にカンカンが命中してしまったのだ。
「いってぇ…。」
まさか当たるとは、しかも頭に命中するなんてと、とにかく謝る加波子。
「ごめんなさい!」
亮は睨むような呆れたような顔で加波子を見る。それが目の合う最後のチャンスだと思った加波子は声を張り上げる。
「ライン!待ってますから!」
亮は自分に当たったカフェオレのカンカンを拾い、ごみ箱に入れる。何も言わずに去る亮。
そして加波子はまた、亮の後ろ姿をずっと見ていた。見えなくなるまでずっと。公園に残され、ひとりぽつんと。
緊張の糸が切れた加波子はベンチにドスンと落ち、頭を抱える。
「やっちゃったー…さいあく…。」
帰り道。歩く加波子の息はため息だけ。でも一度だけ声を出す。
「…ヒラノ…リョウ…さん…。」
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