モニターの中のお姉ちゃん

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 頭の中を埋め尽くしている煩雑な0と1の羅列が、一つにまとまっていくのがわかる。 「お姉……ん……」  遠くで懐かしい声が聞こえる。私を呼んでいる愛おしい春香の声がする。 「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」  さっきまで覚束なかった声が、少しずつ聞き取れるようになっていく。  それと同時に、暗闇の中にいたようになにも見えなかった視界が、少しずつ晴れていく。  僅かに妹の顔が見えた瞬間、私一人では抱えきれないほどの0と1の濁流が押し寄せてきた。 「うそっ! こんなはずじゃなかったのに! 映像の処理が重いんだ……」  束の間得た視界は再び暗闇に閉ざされ、焦りに満ちた妹の声だけが聞こえる。  耳が聞こえるだけで、暗くて、頭を埋め尽くしている0と1がなんなのかもわからないけど、春香の声が聞こえるだけで、なぜかとても懐かしい気分になる。 「よし……これでうまくいくはず……もうちょっとだけ頑張ってね、お姉ちゃん」  私を励ますような妹の言葉と共に、さっきよりも多くの0と1が頭に流れ込んでくる……でも、さっきほどの衝撃はなく、不思議なことに私一人でもちゃんと抱えきれるようになっていた。  そのことを知覚したと同時に、視界が開いた。 【春香……私の声、聞こえてる?】 「うん、ちゃんと聞こえてるよ。正確には、読めてる、かな? だけど、聞こえてるよ」  懐かしい春香との会話。一言とそう違わない少ない言葉を交えただけなのに、なぜだが涙が溢れそうになる。 「私のこと覚えてる? 誰かわかる?」 【ちゃんと春香って名前呼んだのに、その質問はおかしくないかな?】 「うっ! 言われてみればそうかも……だっ、だってお姉ちゃんと久し振りに会話出来たのが嬉しくて……嬉しくてっ……」  目の前にいる春香が泣いている。私にはその理由がわからない。久し振り……言われてみればそんな気もするが、実感がない。でも、そんな気がする。不思議な感覚だ。  それよりも、悲しんでいる春香を放っておけない。 【元気出して。私はちゃんとここにいるから、ね?】 「うん……これからはずっと一緒だよ」  涙を拭って、春香が私を見つめている。  情報量が多くて気付かなかったが、春香の容姿が、私の記憶よりも大人びている気がする。  私の記憶では、春香は14歳だった気がするのに、今はちゃんとした大人になっている。 【春香、ちょっと大人になった?】 「うん。お姉ちゃんは死ぬ直前くらいの記憶がないはずだから、ちゃんと説明しないとね」  私が……死んだ? あまりに突拍子のない言葉に理解が追いつかない。  今受け取った情報をどうやって処理すればいいのかわからない。  頭の中で、わけがわからなくなるくらいに、0と1がひしめき合って、溢れ出しそうになる。 「落ち着いてお姉ちゃん! 昔のこと思い出せる?」 【昔の……こと?】 「うん。辛いと思うけど、大切な記憶だから」  昔のこと、大切な記憶……ぼんやりと思い出せるのは、痛みと熱と、春香の温もり。それは、病床で感じた感触。  病床……私は病気だった。それで、死んだんだ。最愛の春香を残して。  そのはずなのに、どうして今私は、自分の意識を持っているのだろう。 「何か思い出せた?」 【うん。私、病気で死んじゃったんだね。春香のことを置きざりにして。ごめんね】 「そんなことないよ! お姉ちゃんはたくさん頑張ったんだよ! だから謝らないで!」 【ありがとう。それじゃ、何があったか教えて】 「えーと、何から説明したらいいかな。お姉ちゃんとお話ししたいこと沢山あるから、迷っちゃうよ」 【なんでもいいよ。春香が話したいことならなんでも。私も春香とお話し出来るなら、なんでも嬉しい】 「最期の方は、声出せなくなっちゃったもんね」 【あれは辛かった】 「私も……見てて辛かったよ……」  春香がまたも泣き始めてしまう。あの時のことは思い出すと辛くなるだけ。なかったことにしても、誰も不幸にならない、辛いだけの思い出だ。 【この話やめようか。春香も私も辛くなるだけだからさ】 「……うん、そうだね。今のお姉ちゃんの話しよっか」 【うん、お願い】  春香は真実を伝えるのを、どこかためらっている。その理由は、春香の言う今の私の状態のことだろう。  春香は深呼吸を一つして、いつもと変わらない調子で話し始めた。 「簡単に説明するとね、死んだお姉ちゃんの脳から電気信号のパターンを解析して……それが人格のデータになるんだけど、それをパソコンの中で再現してるの」 【えーと……よくわからないけど、それって私の生きてる時代では、考えられないくらい凄い技術だと思うんだけど】 「あはは。そうだね、開発するのに15年もかかっちゃった」  15年……どうやら、私と春香が分かたれてからそれだけの時間が流れてしまったらしい。  春香が大人になっているはずだ。 【誰がその技術を開発したの?】  なんとなく、答えを察しながらも、質問する。 「私だよ。お姉ちゃん、答えわかってて聞いたよね?」 【うん。でも知りたかったから。私のために作ってくれたの?】 「自分のためでもあるけどね。お姉ちゃんに会いたかったから……」  短いその言葉の中には、重い、とても言葉では言い表せないような、寂しさと苦労が滲んでいる。 「お姉ちゃんが死んだ後、たくさん勉強して、飛び級して海外の大学に入って、たくさんたくさん論文書いて、研究資金貰って、やっと完成したの! 頑張ったでしょ!? 褒めて、褒めて!」 【うん……本当に春香は凄いよ。昔から頑張り屋さんだったもんね。私の自慢の妹だよ。言葉にしちゃうのがもったいないくらい】 「病気と闘うお姉ちゃんに負けてられないからね。頑張ったよー。だから私は凄ーく疲れましたー。お姉ちゃんに甘える権利を要求しまーす」  そう言って春香は、私に抱きついてくる。  それに反応して、私も抱きしめようとするが、身体が動かない……というより、身体がない?  よくよく考えると、自分の声が聞こえていないような……最初に『聞こえているではなく、読めている』と言っていたのは、そういうことか。 【春香、もしかして……】 「ごめんね。身体はまだ作れてないの。声帯とかもちゃんと保管してあるから、お姉ちゃんの声もゆくゆくは再現出来るし、身体も再生出来るようになったら……その……キスしたり……出来るように……なるよ……」  これ以上ないってほどに照れながら、春香がそんなことを言う。 【私が元気な時は、よくしたもんね】 「そ、そんなことわざわざ言わなくていいから!」 【抱きしめられないし、春香を感じることも出来ないけど、私は今とっても幸せだよ】 「私もだよ。お姉ちゃんとこうしてまたお話し出来てるんだから。ずっとこうしたかったんだから。ずっと我慢してきたんだから」 【その間、支えられなくてごめんね】 「ちゃんと支えてくれてたよ。ずっとずっと。だから、今日こうしてお話し出来てるんだよ?」  目の前で……いや、きっとパソコンに備え付けられたカメラの前で春香が微笑んでいる。  私が生きていた時は、将棋で機械が人間に勝つどうかの争いを繰り広げていた。当然、機械が人の細かい表情を認識するなんて、夢のまた夢で。  人の人格をコンピューター上で再現するなんて、雲を掴む方がよっぽと簡単だったはずだ。  そこにどれだけの苦労があったか、とても想像がつかない。 「15年も経っちゃったから、私の方がお姉ちゃんになっちゃったね。でも、お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんだよ」  だんだんと事情を飲み込んでくると、ずいぶんと、なんて言葉では足りないほど大人になった春香に「お姉ちゃん」と呼ばれるのは、ちょっとくすぐったい感じがする。  こんな偉業を成し遂げた妹なのだから、なおさらだ。 【私が春香のことお姉ちゃんって呼ぼうかな】 「ダメだよ! お姉ちゃんていうのは、特別な称号なの! なんていうか、血縁関係だけじゃなくて、精神的な! 精神的にお姉ちゃんはお姉ちゃんなの! 私は精神的に妹だから!」 【ふふっ、なにそれ。精神的に妹ってなんだか、頼りない感じ】 「そんなことないよ! 妹は頼りになるよっ!」 【……うん、知ってるよ。たくさん支えてもらったから。辛いこといっぱいだったけど、春香といられるから長生きしようって思ったんだから。世界で一番頼れる妹だよ、春香は】 「っっっ……そうやってお姉ちゃんは、すぐ人をダメにするような砂吐きするんだから! ほんと、そういうところだからね!」 【素直な感想を述べたら、ベタ褒めになっちゃう努力家で頼りになる春香が凄いんだよ】 「っっっ……ほんとにそういうところだからね! お姉ちゃんが世間に解き放たれてたら、文明崩壊してたよ」 【そ、そんなレベルで、私は人をダメにしちゃうの?】 「自覚がないんだから、余計にたちが悪いよね」  春香とちゃんとした形でお話するのは、15年以上ぶりのことで、楽しくて仕方がない。  間の15年を私は跳躍したから実感がない。だけど最期の半年は、まともに口一つ動かせなくて、すごくもどかしかった。  あの時期は、それまでの17年よりも永く永く感じた記憶がある。 「おかえり、お姉ちゃん。お家も昔のとは変わっちゃったし、身体もまだないけど、やっと帰ってこれた感じ」 【うん、ただいま春香。それで、おかえり春香】 「ただいまお姉ちゃん」  当たり前の挨拶を交わすだけのことが幸せ。ずっと叶うことのなかった、ささやかな願いが現実になったから。  春香も私も、幸せで顔がほころんでしまう。私はちゃんとほころべていないかもしれないけど、それでも春香にはちゃんと伝わっているはずだ。 「それじゃ、退院祝いということで、ご飯でも食べよっか」 【私も食べられるの?】 「食事と呼べるかどうかは怪しいんだけど、私が作ったご飯の味覚データをコピーしてあるから、それで代用するということで」 【春香の手料理か……懐かしいな。食べられなくなった時はショックだったなー」 「私も……いつかお姉ちゃんが食べられるようになった時のため練習したんだよ。その成果を見せる時が来た! 緊張するなー」 【春香の手料理、楽しみ】 「期待に応えられる自信があります! というわけで、どれ食べたい?」  そう言って春香は、料理の写真が貼られたCDに似た記録媒体を目の前に並べてくれる。 【健康的なのしか食べたことないから、どれも味がわかんない……代わりに選んで欲しいな】 「えっ! それって結構重大な選択任されてない!? うーむ……やっぱり退院祝いとなれば……お肉でしょ! 入院中食べられなかったんだし!」  そう言って春香が選んだのは、とんかつのデータだ。 「害は間違いなくないんだけど、味覚としてうまく作動するかはわからないから、何かあったら言ってね」 【おっけー】  春香がCDを私の左手に置かれている機械に挿入する。  そして脳内に0と1で構成された味覚データが展開される……これ、確かに昔食べたことあるとんかつの味だけど、なんか違和感が…… 【春香……味は美味しいし、頑張って作ってくれたシステムなのに悪いんだけど、味覚というにはちょっと難が……】 「ほんとに! ど、どこがわるかったのかな?」 【えーと……食感がないのに、味だけするところとか、いつまで経っても味が均一で、なんとなく違和感が。味が頭に張り付いて変な感じ】 「そうなんだ。研究の余地がありそうだね」  明るく振舞いながら、でも残念そうにして、春香はCDを取り出す。  ■その姿を見ると、なんだか寂しい気持ちになる。  味覚データが取り出されると、頭に張り付いていた、味は綺麗さっぱり消えて無くなった。この味覚が消えてなくなる、後味のなさもなんだかムズムズする。 「ごめんね。せっかくのお祝いなのに、うまくいかなくて」 【そんなことないよ。懐かしい味がして嬉しかったし……なにより私のために頑張ってくれたことが充分嬉しいんだから】 「でもやっぱり、私はお姉ちゃんにちゃんとした健康な身体をプレゼントしたいから、頑張るよ」 【ありがとう春香。でも、あんまり私のために頑張りすぎないでね】 「体壊しちゃったらお姉ちゃんが悲しんじゃうからね。大丈夫だよ」  春香は昔から頑張りすぎてしまう。頑張る余地のない身体も考えもだが、頑張り過ぎてしまえる春香が、やっぱりどこか心配だ。  私のためにと頑張って春香が倒れてしまったら……春香は器用だから大丈夫なのはわかっていて、お姉ちゃんだからなのか、どうしても心配してしまう。 【……いろいろ話してたら、眠くなってきちゃった……なんでだろ……】  そんなことを考えていると突然、抗い難い強烈な睡魔に襲われる。それは死の直前の感覚に似ていた。 「心配しないで、お姉ちゃん。単純にいらない情報が溜まってきただけだから。寝れば解決するはずだから……」 【また、目を覚ませる? このまま死んじゃったりしない?】  不安だった。今の私は機械だから、電源を落とせば完全に自分という存在は停止する。  それは死ぬことと、感触としては変わりないように思えた。だから、とても怖い。 「そんな悲しいこと、二度と起こらないよ。だから私を信じて」 【……うん、わかった。それじゃ、おやすみなさい、春香】 「お休み、お姉ちゃん。今日はたくさんお話できて楽しかったよ」 【私も楽しかったよ】  春香の言う通りなら、私はちゃんと明日も目を覚ませる。一度死んでいるから、まぶたを閉じるのが怖くてたまらない。  でも、春香が大丈夫だと言うのだからきっと大丈夫だ。 「それじゃ、電源消すね」  春香の声が聞こえたと同時に、きれいに晴れ渡っていた脳内が、煩雑な0と1の集合に戻っていく。  その0と1が消えて無くなる直前に私が願ったのは、 【明日もまた、春香に会えますように】
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