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─6─
いや、あの人が誰かなんて、もう俺が知らなくていい事だよ。
身を引くって決めたんだから、柊一に彼女が出来ようが応援してあげるんだ。
こっそりと、だけど。
俺は、柊一にこの紙袋を直接届けるわけにいかないと思って、コソコソと見付からない位置に移動して近くに居た背の高い男の人に声を掛けた。
私服を忘れた事がバレたら、柊一が大人の人達に怒られてしまうかもしれないと思うと、無闇に人だかりの中に入る事は出来なかった。
「あの…すみません」
「ん? 誰? あ、見学の人? 俺の事見に来たの?」
「え! あ、いや、あの…」
「なになに? それ、プレゼント? 普段は受け取らないけど、君可愛いから貰ってあげるよ」
「あっ、違っ! それは…!」
言葉数が多いこの人から、抱いてた紙袋を奪われて呆気にとられた。
それはプレゼントじゃない。
柊一の私服なのに。
どうしよう、取られてしまった。
「ありがとう、撮影終わったらゆっくり開けさせてもらうね。 見学は初めて?」
そんなつもりはなかったのに、お礼を言われて喜ばれても困る。
何とか返してもらうために「違うんです」と言いながら手を伸ばすけど、逆にその手を取られてギュッと握られた。
「あ、いや、…見学じゃなくて…ていうか手を離して…」
「なるほど、俺目的か。 積極的な子は好きだよ」
「あのっ…えっと…!」
違う、俺はあなたに伝言を頼みたかっただけなんだ…!
とんでもない勘違いをしている男は、手を握ったまま俺の腰に別の方の手を回してきた。
柊一くらい背が高いこの人から腰を抱かれると、なんか…柊一に抱かれてるみたいな気になるな。
脱力して目を閉じると、忘れ掛けた感覚が蘇ってくる。
「……葵…?」
しまいには幻聴まで聞こえてきた…と思って男の顔を見上げてみるけど、やっぱり柊一じゃなかった。
俺は柊一じゃないと…嫌なのに。
抱かれた感覚が似てるってだけで目を閉じてしまうくらい、今の俺は柊一が恋しいのに…。
「葵!」
「えっ…柊一…!」
あ、あれっ? 幻聴じゃなかったんだ…!
向こうで楽しそうに喋ってたのに、怒った顔で俺の腕を引っ張ってきたのは柊一その人だった。
「柊一の知り合いだったんだ? 見ろよ、プレゼント貰っちゃった~…っあ!」
勘違いしたままの男が嬉しそうに紙袋を見せびらかすと、目にも止まらぬ早さで柊一が男の手から紙袋を奪い取る。
掴まれてる腕が…痛い。
「これ俺の私服です。 …葵、何してるの」
「…それ、届けに来ただけ」
「龍之介のファンだったのか?」
「…龍之介って誰?」
「龍之介は俺だよ! え~何だよ~俺に声掛けてきたからてっきりファンなのかと思っちゃったじゃん~」
「それは…っ。 すみません…」
柊一が居た人だかりから離れた位置に立ってたこの人なら、俺がここに来たってバレないうちに伝言を頼んで帰れるかなと思っただけだ。
見定めたわけじゃない。
素直に謝ると、龍之介さんは真顔で柊一に向き直った。
「ま、いいけど。 この子すんごいうまそうなにおいするね。 食っていい?」
「駄目です。 俺のなんで」
「…………!」
「ん~じゃあ柊一はユキちゃんとこの子二股してんの?」
「ユキさんとは付き合ってないです」
え、付き合ってない…?
柊一いま、ユキさんとは付き合ってないって言った?
「OKされたって聞いたけど」
「付き合いは断りましたよ。 NO承諾の条件がデート一回だったからそっちはOKしました。 そうしないとヤバそうだったんで」
「あ~ユキちゃんヒステリー起こすからね。 いいなぁ柊一。 この子味見したいなぁ」
「絶対駄目です」
「ざんねーん。 柊一に飽きたら俺と遊ぼうね。 名前は?」
「……葵、です」
「可愛い。 葵くんか」
…可愛い? 俺が?
何言ってるんだろ。
俺小さいから、子どもみたいって意味なのかな。
遊ぼうね、って言ってたし、絶対そうだ。
「俺の撮り終わったんで直帰します。 お疲れ様でした」
「おー、お疲れー」
紙袋を抱えた柊一は、人だかりとは反対側へ俺の腕を引いて歩き始めた。
──それにしても痛い。
ずっと怒った顔を崩さない柊一は、掴む力をまったく加減してくれてない。
別れよって言ったのに、頼まれたからってこんなとこまでノコノコやって来た俺に怒ってるのかもしれない。
どの面下げて…って怒鳴るつもりなんだ。
でもそれは自業自得だから、ちゃんと受け止めるよ。
恋しかった柊一の手のひらの温かさが俺を舞い上がらせても、強く掴まれた腕が悲鳴を上げていてすぐに現実に引き戻された。
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