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過去編
西山は雨の日が好きだった。というのも雨が降れば、西山にとって都合のいい出来事が起こるからである。
「あ、雨や」
「うわ、急ですね」
そう言って山崎のとなりから窓を覗くと、そこには確かに霧のような雨が降っている。その様子に西山は心の中でガッツポーズをした。
「俺、傘持ってきてないです」
「お、まじか。しゃあないなぁ、優しい先輩が傘にいれたろか」
「調子乗らんとってください……お願いします」
素直でよろしい、と山崎が笑って鞄を手にする。気分は最高と言っても過言ではなかったが、それを決して気取られぬように西山も立ち上がり部室をあとにした。
靴箱で一度別れてから玄関扉の前で待ち合わせる。思わず速歩きになってしまった西山にワンテンポ遅れて山崎が到着した。
「ごめんごめん。西山くんはやない?」
「先輩が遅いんですよ」
「そんなことないですぅ」
そんなこと言ってたら傘に入れたらんで、と口を尖らす山崎に、西山はすぐに手のひらを返す。その現金な態度に山崎は思わず吹き出した。
「……」
よく笑う人だな、と思う。誰が相手でもこうなのだろうな、とも。部員こそ自分と彼の二人きりだが、共にいる時間はそう長くはない。学校にいる間は、西山よりも同学年の友人と顔を合わせている時間のほうが圧倒的に多いのだろう。自分だって、もっと、側にいたいのに。西山はそう思わずにはいられない。
「ほら、野郎二人で狭いけど勘弁してや」
「もう慣れました」
「やろうなぁ」
絶対に伝えてなんてやらないけれど。先程より近くなった距離に、一周回って冷静になった頭で西山は考える。伝えたところでどうなるわけでもない。彼との距離には今のままで満足している。山崎にとっての、たった一人の後輩。たとえ後輩であっても、山崎の唯一でいられるだけで十分なのだ。その関係を壊すつもりは微塵もない。
「こうやって西山くんと同じ傘に入るん何回目やろうな」
「……いつもすみません」
「別に責めとるわけじゃないねんよ」
ただちょっと懐かしくなってな、と告げる山崎の視線はどこか遠くを見ている。今ではない、いつか。例えばそう、「一年前」とか。
「はじめてあったときもこうやって帰ったなぁって」
「そうでしたっけ」
「覚えとってや!俺はこんな鮮明に覚えてるんに……」
嘘だった。西山だって、本当は鮮明に覚えている。はじめて文芸部と書かれていた扉を叩いたあの日も、こんな風に予報外れの雨が降っていたのだ。優しい彼は、そんなアクシデントにも嫌な顔ひとつせず、今日のように西山を傘に入れた。初対面で話しづらかっただろうに、一生懸命に話を振り続ける山崎に、西山はあの日。
「不器用そうやけど悪い子じゃないんは、最初からわかってたで」
確かに、恋に落ちたのだ。持てる言葉のすべてを尽くして、自分に向き合ってくれる姿が、何よりも好ましいと思った。はじめから山崎は西山のことをよく見てくれていたのだ。たとえそれが山崎にとって当たり前のことだったとしても、西山にとってはそれは、何にも変えがたいほど喜ばしいことで。
「……そうですか」
たとえ素直に言えなくとも、西山のなかでは確かにそれは、それだけは真実だった。だから、あの日と同じシチュエーションを体感できる雨の日が西山は好きなのだ。何度も好きを確認させられる、心地のよい、雨で区切られたこの空間が。それでも。
「あと何回、こうやって帰れるんやろなぁ」
「急に、どうしたんですか」
「いや、あと一年だけなんやなって思って」
それでも、終わりはいつかやって来る。他でもない山崎からそれを告げられるのは、思いの外堪えるものだった。そう、あと一年。あと一年なのだ。もう数ヵ月もすれば山崎は卒業してしまう。それは決して覆せる事実ではない。
「……進路とかは、決まってるんですか」
「まだやなぁ。とりあえず、大学行ってから」
「……そうですか」
「西山くんは、寂しい?」
僕がおらんようになったら、なんて。それがどれだけ卑怯なことか、山崎は知っているのだろうか。そんなの、決まりきっているのに。
「さあ、そのときになってみないと、わかりません」
「そっか」
寂しそうに山崎は笑う。西山の好きではない笑いかたで。そんな顔が見たくなくて、西山は思わず「でも」と口にした。
「でも、先輩と、また会えたらいいなとは」
思わない訳じゃ、ないです。こんなときくらい断定した言い方ができない自分に、西山は唇を噛んだ。それでも山崎は少し嬉しそうに顔をほころばせていて、西山はその単純さすら好ましいと思ってしまう。
「今日は、ちょっと遠回りして帰ろか。ほら、雨やし」
「なんなんですか、それ」
「なんとなく、フィーリングってやつ」
「意味わかんないですね……でも」
「いいですよ、連れてってください」と。そう言えたのは、小さな進歩か。先程から一向に止む気配のない雨の中、こんな会話も一年後にはできなくなっているのかと。そう思った西山は、やりきれない思いと共に、このまま雨に溶けてしまいたいとさえ思った。
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