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変化
口の中に、ひんやりとしたメントールが広がる。直後に鉄臭い、どろっとした液体が広がったメントールを飲み込んでいく。
プラスチックでできたハッカパイプを噛み砕き、破片が口を切り裂いていた。しかしもう、そんな事はどうでもよかった。
…………………………………………………………………
煙草をやめ、ハッカパイプに切り替えたのは娘の妊娠がわかった時だった。
「あなた、この子の為にも禁煙したらどう?」
それまで煙草の事に一切口を出さなかった妻が、嫌悪感を剥き出しにして言ったのだ。あの目は私を責めていた。
私が気づかないうちに、彼女は母になっていたのだ。
女は変わり続ける。
それを残念がるのが男だと、誰かが言っていたような気がする。
しかし、私はそれが嬉しかった。
女を変えることができるのは男だけ。それもその女に認められた男だけだ。それが彼女にとって私だったのだ。
そう思っていた。
娘が生まれた時、彼女と娘を守ってやろうと本気で思った。この2人を守っていくのが私の使命であり、運命であると。
そのために、身を粉にして働いた。
2人が待っていると思えば、上司からの罵声も、無茶なノルマも耐えられたのだ。
働いて、稼ぐことが家族の幸せだと信じて疑わなかった。
しかし、家庭に巣食う闇は徐々に私達も侵食していった。
最初の変化は、娘の夜泣きから始まった。
「ねぇ、なんであんなに煩いのに貴方は起きないの?」
ある朝、目の下に大きな隈をつくった彼女が、ぼそっと呟いたのだ。
それはあの時の、嫌悪感や責めるような物言いと同じだった。
思えば、彼女は再び大きな変化を起こしていたのだ。それはもちろん私によって、そして娘によって引き起こされた。
その日以来、坂を転がり落ちるように私達家族は堕ちていった。
「遅かったわね」
それが彼女の口癖となり、私は
「ああ」
としか答えなかった。
私達夫婦は背を向けあっていたのだ。
真っ正面から殴り合いをしていた方がいくらかよかった。そう思うのも、遅すぎた。
いつか起きると思っていたことが今日、起きてしまった。
私が家に帰ると、幼い娘の首を妻が両手で締め上げていた。私は止めなかった。止める資格などなかった。
もう、私にできる事は1つしか残されていない。
動かなくなった娘の首をさらに締め上げる妻を横目に台所へと向かう。思えば、結婚して私が台所に立ち、包丁を握ったのは、これが初めてだった。
夢中になっている妻の背後に近寄り、包丁を振り上げた。
その瞬間、だらしなく開いた娘の目と振り返った妻の目が、包丁を握った私を映した。
「遅かったわね」
「ああ」
包丁が心臓にまで届くように力強く振り下ろした。
やはり、私は本当は彼女に変わって欲しくはなかったのだ。変わり果てた母と娘の姿を見て、そう感じる自分を嘲るように笑った。
これを吸えば、戻れるのかもな……
そう思い、後輩からもらった一本の煙草とライターを取り出す。
「無理な禁煙なんて辛いだけっすよ。一本だけならバレやしませんって」
もうバレる事はないだろう……
慣れた手つきで煙草に火をつける。血の味と、煙草のメントールが混ざり合い目の前の惨状が口の中でも広がっているようだった。
すると突然、妻の目が見開き飛びかかってきた。
「私とぉ……こ……まえ……たば…すう……」
口から溢れる血の所為で言葉になっていなかったが、その断片だけでも十分だった。
『私とこの子の前で煙草を吸うな』
あまりにも哀れで、変わってしまっていた。
私は妻の心臓付近に刺さっていた包丁を勢いよく引き抜き、自分の首を掻っ切った。
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