~◉いろはにおえど……◉~

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朝もまだ薄暗い夜明け前、小柄な身体に行李を背負った一人の男(雄)が己の身の丈ほどもある背の高い草っ原を足早に突き進んでいた。 草に馴染んでいた朝の露が彼が通り過ぎる度、粛々とした世界に左へ右へと微かな朝の光で輝きながら飛び散る。 その景色は本業である提灯絵師を生業とする普段の彼ならば、立ち止まり輝きにただ一息ついたかもしれない。 しかし今の彼は、村の長より託された書状を届けねばならぬ身。 そんな僅かな心の余裕すら、元来の生真面目な性格には気の緩みでしかないと考えているのか、まわりの状況が目に入りすらしていない。 ひたすら前へ前へと進むのみだ。 手や足や身体は、朝露や千切れた草花がはり付き、綺麗好きな者は煩わしく感じるだろうが、当然そんな気すら起こっていない。 鋭利な葉や倒木もあったのか、いつの間にか知らぬうちに、大小様々な傷ができ、中には出血しているものもある。 痛みもあるだろうが、そんなことも気にもとめることもなく、ただ前へ前へと進むのみだ。 この仕事に対する姿勢こそが、村の長を始めとした長老方の信頼と気に入りにも繋がっている。 亡きじっ様が常々寝物語の最後に〔信頼は失ってしまうのは一瞬だども、築き上げるっちゅうのは、えれぇ長くて簡単にはいかねぇものだど〕と語った。 この言葉を心に刻み付け、彼は毎回真面目すぎるほど真面目に取り組み仕事をこなしているのだ。 だが最近の若い男衆からすれば、彼の輝かしい結果を羨ましがる家族や親戚からやたらと比較され、その度にうんざりさせられているのか、折に触れては心ないことを口にされることも多い。 中には、彼を良からぬ道へと誘惑することで、自分達以上の堕落ぶりを見せつけてやろうと言う企みも、年齢より幼稚で浅はかな思慮による行動なのかもしれない。
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