人の群れ、ただなかひとつの君の影

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 そうして僕は田内(仮)の魔の手を逃れ、昇降口を抜け、校門へと向かった。  あとは駅に向かうだけだ。ここ数年で二三件飛び込み事故が起きている物騒な駅だが、交通手段を選べる身分でもない。  そう思って、油断――していたのだろう。  いきなり後ろから襟首をつかまれた。想像してもらえれば分かると思うが、これは本質的に相手を見下していなければ実行できないアクションである。 「よーう、鷺白。今帰るところか? 田内一緒じゃねえのか」 「浅田……くん」  田内(確定)と同じグループの、いじめっこな同級生だ。  そこに、後ろからやってきた田内が合流した。 「なんだお前、いつの間に帰ってたんだよ。コソコソしやがって。そんなことだからいじめられるんだぜ」  くそ。油断した。油断した。校門を出るまで、ステルスを解除するのではなかった。 「まあ、そんなお前に度胸つけてやろうと思ってさ。一緒に本屋にでも行こうぜ」  にやにやとそう言ってくる田内と、同じ顔で笑う浅田に挟まれ、僕はとぼとぼと校門を出た。 「できない、万引きなんて」 「なら、明日から地獄が始まるけどいいのか?」  学校から一駅離れたところにある本屋の外で、僕は二人からねめつけられていた。 「これはお前のためなんだよ、鷺白。一生ビクビクしながら生きてく人間になりたくねえだろ? ちょっと勇気出すだけで、世界は変わるんだぜ」  田内の、耳触りの言い言葉選びに、唾を吐きたくなった。 「いいな鷺白。世界を変えるか、地獄で生きていくかだ。悩むまでもねえだろ。盗ってきた冊数によってまた今後も変わるからな」  どんと背中を押され、開いてしまった自動ドアの内側に押し込まれる。二人は外で待っているようだった。  絶望的な気分で、僕は本屋の中を歩きだした。  静かに仕事に励んでいる書店員や、書棚を物色している客たちが、全員警察官に見えた。  落ち着け。僕はまだ何もしていない。  いや、これからだってしない。このまま、何もせずに店から出るんだ。そしてーー……  そして、それから先どうなるかを思い浮かべて、えづきそうになった。  何もしないでいると不審な目で見られると思い、僕は適当な棚の前に立つと、背表紙も見ずに適当な一冊を手に取った。  僕は、肩に通学カバンをかけている。上端についているジッパーは……おあつらえ向きに、半開きになっていた。  せめて閉じていてくれたら、それだけで諦めたかもしれないのに。  地獄。   犯罪。  地獄。   補導。  地獄。   人生。  地獄。   親、学校、将来――……  地獄。  思考能力が失せ、頭の中が灰色に曇った。  僕は、ステルスを発動した。周囲の視線から、自分だけが別枠に逃れたのを認識する。  田内を、浅田を、卑劣なハイエナだと思った。  でも、本当に卑劣で情けないのは、僕だった。  何がステルスだ。何が能力だ。誰からも見えなくなる? そうさ、こんな後ろ向きな力を、心から誇っていたわけじゃない。分かってる。  自分がどんなにくだらない人間か、この能力が証明しているじゃないか。  ただひとつの自分の特技が、無性に薄汚く思えた。  尊厳も矜持も消えた。  僕は手の中の本を静かに、カバンの口に吸いこませようとした。  しかし。  涙でにじんだ視界。おぼつかない指先。急に、それまでより重みを増したように思えた本。  僕の手首がかくりと折れ、本は平積みされた別の本の上にパタリと落ちた。  そんな物音を立てたせいで、ステルスが解け、店員や客の目がいっせいに僕に向いた。  失敗した。  僕はできる限り丁寧に本を元の場所に差し込み、早歩きで本屋を出た。  そしてすぐに、田内に襟首をつかまれた。
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