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「どうして」
反射的に聞いていた。それがいいのか悪いのかも考えずに。
「言葉にすると、しょうもないことだよ。自分の姿を消せるようになったのは中学の時だった。大人しくてぐずぐずした人間だったから、いじめでね。こんな力、ちっとも嬉しくなかったけど。とことん人間不信になって、高校一年の時、優しくしてくれた先生を好きになったの。でも、既婚者だった。それがずっとひとりぼっちだった反動で、どうしても諦められなくて、告白して、すがりついた。そうしたらね、――」
一ノ瀬さんがうつむく。
「――先生も、私のことを好きになったの。離婚するって言ってた。子供もいるのに。でも私は、それが悪いことだと思わなかった。新しく好きな人ができたなら、そっちとくっつくのはいけないことじゃないって思った。ただ、今先生が一緒に暮らしている人たちはどんな風なんだろうと思って、姿を消して、先生の家に忍び込んだのよ」
僕はまた、唾を飲んだ。
一ノ瀬さんの表情は、長い髪に隠れて見えない。
「見るんじゃなかった。あんなに、あんなに幸せそうに、見たこともない顔して、あんなに幸せそうなのに、なんで私なんかに誘惑されるの。日曜日朝から一日潰して、ずっとあの家族を見てた。夜、明るくてにぎやかなあの家のリビングから逃げるように帰って、一人っきりで誰にも見えないまま歩けるだけ歩いて、それから、いよいよ消えてしまいたくなって、その日から自分を消すのがなお上手くなっていった」
彼女は、また立ち上がった。頬に涙が幾筋も伝っている。
さっきまで見せていた、冷静そうな印象はもうない。
「今日、さっきだよ。先生に放課後に呼び出されて、離婚届見せられた。まだ奥さんには見せてないけど、今日書いてもらうって。そんなことさせられるわけない。私なんかのために、絶対だめ。だから今なら間に合うの、私がいなくなればいい。でも、……死んだとは、思わせたくなかった……。だけどそんな虫のいいこと、ないんだよね」
大人しそうな人間が、無気力だとは限らない。激しい感情をため込み続けて、それが弾けた時の激しさというのは、日ごろから活発な人間とは比較にならないことがある。
その激しさのままに、一之瀬さんは家を飛び出した。
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