0人が本棚に入れています
本棚に追加
そして男は旅に出た。
今まで知らなかったもの、人、風景、文化。様々なものに触れ、刺激に満ち溢れた旅であった。
旅先で夢中になって絵を描いて、それを売って旅費と妻子の生活を支えていた。それができるほど、男の絵は旅に出てから良くなった。
ただ、男の目的である世界で一番美しいものは、まだ創れていない。
周りの評価が上がっていっても、自分の中で何かが足りていない。その差はゆっくり広がっていき、他人の評価と自身の評価のずれがしだいに大きくなっていった。
たくさんの芸術家と交流し技術を身につけ、人や風景に心を揺さぶられ、男の絵は素人が見ても唸るほど、迫力や美しさを表現していた。
誰も男が苦悩していたことになど、気づくはずもない。
ある日、湖の傍で絵を描いていた男は、突然筆を折り、自分の絵を切り裂いて、その場に荷物をすべてばら撒き奇声を上げた。言葉にならない何かが男の中から吐き出され、辺り一面に物が散らかった真ん中で、男は倒れて空を見た。
美しいと思った。だがこれじゃない。こんなものじゃない。求めているものは、もっと、もっと――。
また発狂しそうになった男の顔に、風が紙を飛ばしてくる。
乱暴に引きはがすと、それは手紙だった。見知らぬ手紙。しかし差出人の名前は、良く知っていた。妻からの手紙だった。
旅に出る前に、妻が鞄に忍ばせていた手紙だが、妻もまさか何年もたってから発見されるとは思っていなかっただろう。
男は手紙を読み、心配ばかりの言葉と、隠れている寂しさを感じて、無性に妻に会いたくなった。子供を抱きしめたくなった。
もうすぐ五年が経ってしまう。帰らなければ。
男は笑って、荷物も拾わずに駆けだした。
通りがかった行商人のに乗せてもらい近くの村へ、そこから故郷へと馬車を乗りついで一ヶ月。遠くまで来ていたつもりだったが、案外と近いことに苦笑を浮かべながら、妻と子供のことを思い浮かべる。
もしかしたら、別の男に嫁いでしまったかもしれない。それでもいい。彼女が笑いかけてくれるなら、子供を抱きしめられたなら、それだけでいい。
今までの旅路の倍は長く感じたその道のりも、もうすぐ終わる。自分の町に一番近い町で、逸る気持ちを抑えて馬車を探した。
「あんた、知らないのかい?」
その言葉のあとを、男は信じられなかった。
だが誰に訊いても同じことを繰り返した。見かねた行商人が近くまで行くからと男を乗せてくれ、そしてその言葉が偽りではないことを、その目で見てしまう。
最初のコメントを投稿しよう!