長崎聞役

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長崎聞役

 江戸時代の長崎は、海外との交流が制限される鎖国政策の中、唯一オランダ、中国との交易を行う国際貿易港として様々な文化、交易品等が往来していた。  長尾虎之助は長崎聞役の補佐を務めていた。虎之助の家は江戸初期の頃、北国地方から長崎に移り住み、以前の領主であった大村藩藩士と知古を得、直轄地となっていた長崎の蔵屋敷に務めるようになった。虎之助はオランダ語の修学等により聞役の補佐を任される様になった。  長崎聞役とは西国の14藩が長崎に置いた役職である。長崎奉行から国元への連絡の取り次ぎ、貿易品の調達、諸藩との情報交換等重要な任務となっていた。進物用の舶来品の調達は、藩主やその関係者へ送られたり、幕府や他藩への贈答品等になっていた。  長尾虎之助は別に密命も帯びており、武器の抜け荷の内偵を長崎奉行所同心木村とともに進める事になっていた。天下太平の江戸期、武器の抜け荷はあまり聞かない。わざわざ抜け荷してまで必要な事はまずなかったのだろう。武器としてよりも舶来品としての価値はあったかも知れない。また一部ガンマニアのような人もいたかも知れないが、それらは極少数であったろう。  木村は虎之助の家に出向いた。 「木村殿、武器の抜け荷と言いましてもどこかの裕福な人数人が集まって、『今日は珍しい品が入りましたよ。これは全部私が集めました』とか言って精々自慢しあう程度じゃないんですかね?」 「それは分かりませんが、でも野母崎の沖合から入ったオランダ船が流されて外海の沖合まで行ったり、偶々そこに商船が通ったりと、調べる必要はあるでしょう」  長崎半島の南端が野母崎で、野母崎を北上した長崎半島の付け根に長崎港があった。長崎港のさらに北側に外海はあった。外海方面は大村藩の領地でその沿岸部十数か所に番所を置き警備していた。 「まあそうですね、抜け荷である可能性は大きいですから、藩の者には十分注意するよう伝えておきます」 「では私は、商船の主である廻船問屋の福多屋を調べてみます」  虎之助は少し酔いがまわり、別の話を始めた。 「でもこの間の寄合の時は参りましたよ。酒も進んで愈々 山(丸山町)に繰り出そうかという時に、配属されて日の浅い若輩の者が突然言い出したんです。『こんなに頻繁に寄合には来れない』と」  木村も聞役達が寄合を作ってしょっちゅう飲み歩いている話は聞いていた。長崎の丸山は当時、江戸の吉原、京の島原とともに、三大遊郭の一つと言われていた。 「寄合の先輩方が訳を聞くと、『我が藩は財政難の折、質素倹約を旨としております、私だけがこんな事で羽目を外す訳にはいかないんです』と、先輩方は怒って『こんな事とは何も知らぬ馬鹿者だな、山のあの方達はな、異国の人達や、大商人、お前など相手にもされないお偉方と親しく付き合っておるのだぞ、わかっておるのか?』、すると若輩の者は『そんな当てが有るのか無いのか分からない事で藩の大切な費用を散財させる訳には参りません』と……、すっかり酔いが醒めましたよ。先輩方は大層ご立腹なされていましたが、でもまあ、どこの藩も大方財政難でしょうから、先輩方も藩に帰れば質素倹約を旨とする模範的藩士となっているのかも知れませんね」  虎之助の奥方お菊が追加の酒と肴を持ってきた。 「これはこれは御膳まで頂いたうえにスルメまで」 「木村様もお若いのにお一人で江戸からこんな遠方まで来られて大変でしょう」木村は二十五だった。虎之助はもう四十になる、お菊は三十三だった。 「いえいえ、江戸とはまた少し違う活気がありますし、虎之助さんや町の人にも良くしてもらってて何だかいい所ですね」 「でも江戸にはいい人残してきてるんでしょ?」 「いいなずけはおりますが、今はここでお勤めに励み、皆様とともに過ごし様々なものを学んでいけたらと思っております」
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