あるいは小魚のように。

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あるいは小魚のように。

 私が時々思うのは、「個性というものは才能のある人間に許された特権である」ということである。それ以外の人間はむしろ、無個性であることが望ましい。空気を読み、潮流に流され、人ごみの中のその他大勢であること――。それが正しいか誤りか、良いか悪いかは別として、少なくとも私はそのように生きてきた。  昨日の疲れが取れないまま朝の六時に起床し、洗面台で身支度を整えると、真っ白なYシャツに袖を通す。白いYシャツはさしずめ社会における迷彩服である。ネクタイを締めるかは少し迷った。テレビの気象予報士が「今日も真夏日となるでしょう」などと言うのだからノーネクタイでも許されるだろう。身に着けないことに決めて、しかし一応通勤かばんの外ポケットへと入れた。  リビングに行くと、妻はすでに働き始めていた。彼女はてきぱきと朝の家事と、パートタイムに出かける支度を済ませていた。なおもベランダに立ち洗濯物を干す彼女を見ながら、私は用意された朝食をのそりと摂る。この瞬間はいつも、有限を活用する者と時を無為に過ごす者との対比を感じさせられ、いたたまれない心地になる。そうかといって、どうしていいのかも分からなかった。私はしょせんその程度の人間であった。それは決して卑下の精神ではなく、妥当な評価といえた。 「燃えるごみの日だからね」 「うん、出しておくよ」  妻とそんな会話を交わし、いつもと同じ時刻に自宅を出た。駅に向かうまでの間に近隣住民に出くわせば挨拶をするし、会わなければ会社に着くまで誰とも口をきくことはない。  共用のごみ捨て場にごみ袋を捨てると駅に向かって歩き始めた。ところが数歩歩いたところで違和感を感じて、内心で私は(ああ、またやってしまった)と唸り、手元を見る。やはり手元にはまだごみ袋があって、振り返った先に通勤かばんが捨ててあった。小さくため息をついて戻ると、ごみ捨て場から通勤かばんを回収する。代わりにごみ袋を捨てる。時間にして二十秒のロスだ。  加えて誰かに見られていやしないかと見渡すと、通学途中の女子高生が不思議そうな顔をしてこちらを見ていたものだから、ばつが悪くて早々に立ち去った。私は「通勤かばんとごみ袋を間違えて捨てていたおじさん」として、今日一日、彼女のクラスメートの間で小さく話題となるに違いない。  しかしこんなことは私の日常においてよくある間違いだった。疲れているのだ。きっと休養の必要がある。 (海の見える、静かな場所で休みたい)  そんなとりとめのないことを考えながら、駅への道を急いだ。
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