あるいは小魚のように。

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 しばらく無言のまま、人波にゆっくりと流された。通路の終点が見える。刻一刻と近づく未知への畏れに、私の鼓動は一層高まった。そうだ、私の心臓はこんなにも脈打っている。私は亡者ではない。生きているのだ。 「では」と老人が再び口を開いた。 「どうでしょう、この人ごみを抜けるまでに、あなたが在るべき場所を願ってみるのです」 「それで助かるのですか?」 「分かりません。わたしもこの行列に並ぶのは初めてですから」 「ああ、そうでしょうね」  文字通り、生きた心地がせず頷いた。襟元(えりもと)を緩めようとネクタイに手を伸ばすが、今日は締めてこなかったことを思い出した。落ち着かない様子の私に老人はなおも言葉をかける。 「ですが、昔ばなしが頭をよぎりました。知人は戦争で足を悪くしましてね、捨て鉢になった時期もあったそうです。だが命を落とした仲間もいる中で、己だけが弱音を吐くことに罪悪も感じた。  そんな葛藤(かっとう)の日々を過ごしていると、気が付けば、彼は生気の感じられぬ人ごみの中を歩いていたとか。――まあ、聞いたときは与太話としか思いませんでしたが、なるほどこの行列のことかもしれません」 「それで――」 「人ごみの終わりが近づいてきたときに『やはり僕のいる場所はここじゃあない』と、強く願ったそうです」 「彼はもとの世界に――現実に戻れたのですか?」 「ええ」 「そんな、単純な方法で足りるでしょうか」 「現にあなたは、ほんの些細な手違いでここに迷い込んだではありませんか。  わたしが思うに――世の(ことわり)とはもともと簡単なものです。現代(いま)の人はとかく難しく考えるようですが」  それは一縷(いちる)の望みでしかなかった。しかしできることといえばそれ位しかないというのも、また事実であった。  私は覇気のない声で老人に礼を言うと、その細い希望の糸に必死にすがった。  通路を抜ける――。 ***  真っ先に反応したのは聴覚だった。ざわざわとした音が耳に飛び込んでくる。次いで空気の流れを感じた。  両目はそれより前から情報を映していたのに、視覚として認識できたのはその後だった。その代わり認識してからは、情報が波のように押し寄せてきた。JR各線のホームに通ずる乗り換えのための階段が、手前から奥へずらりと並んでいる。番線を示す看板が路線ごとに色分けされており、真っ先に目についたのは手前の、緑地に白抜きされた「14」という数字だった。各線に乗り換えようとする人々は足早に、まるで示し合わせたかのような歩調で交差する。往来の真ん中で立ち尽くす私に、怪訝(けげん)の目が向けられた。声をかける者はいなかったが、彼らは私の存在を明らかに認めていた。それが先ほどの空間とは決定的に異なる部分だった。  右を見ると、当然のように老人の姿は無かった。 (あれは、疲労が見せる白昼夢だったのだろうか? だが――)  そこは問題でない気がした。あの瞬間、私にとってあれは確かに、もうひとつの現実に違いなかった。
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