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ハキダメ通りなどと呼ばれるうらぶれた路地街に、ブルーシートを張る前、
男にも、それなりを余りある生活があった。
大手の上場企業で役職にも着いていたし、愛する妻と娘で囲む和やかな団らんもあった。洋楽を耳に流しながら絵をたしなむ、穏やかな休日もあった。
最後に家族で夏祭りに行ったのは、いつだったか。
男に手を引かれた小さな娘は、大空に咲き乱れたフィナーレの花火を指差し、「空が大笑いしてるみたい」と例えたものだった。
どこでどう道を踏み外したのか、人生とはつくづく分からないものだと思う。
そんな遠い過去を夢のように思い出しながら、人の波を掻き分けていた時だ。
見たくもない賑わいから目を落としても、どうしても目線が合ってしまうものがピョコンと現れる。
その女の子は、幼稚園くらいだろうか。 白地に向日葵柄の浴衣を着て、顔にはキャラクターもののお面を被っていた。
アニメに疎い男でも、そのキャラクターに見覚えがあったのは、自分の娘が好きなアニメだったから。
未だに人気があるのか、それともリメイク放送でもされたかは知らないが、ともかく魔法少女のお面が、下から覗き込むように男の顔を凝視しているのだ。
男は咄嗟に目を反らし、逃げるように方向を転換した。
しかし、すぐさま少女は男の行くてを遮り、物怖じもない快活な声で言う。
「おじちゃん、何か探し物?
何を落としたの?」
あどけない少女の声。
己の身の上の後ろめたさが、男の目を泳がせる。
相手などすまいと振り払いかけた男だったが──
途端に胸の奥を火照らせた懐かしい感覚が、無意識のうちに体を留まらせてしまった。
そう言えば、最後に娘に会ったのは、これくらいの年だった。
抱き上げた時の、他愛ない重さ。
柔らかく、絹のように滑らかな肌の感触や、太陽の光をはらんだ髪の匂い。
忘れかけていたそんなものが、ありありとよみがえってしまい、男は思わず声を漏らしていた。
「そうだな……おじさんは、どこかにシアワセを落っことしてしまったみたいだ」
「シアワセ?
シアワセって、なぁに?」
「うん……何て言うのかな。
前を向いて生きるための、小さな希望……
まぁ、とっても大切なものさ」
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