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「お父さんって、都合が悪くなるとすぐ逃げようとするタイプなの。うちのお母さんを殺すなんて、絶対無理だと思う。あの人とっても怖いから」
笹野さんは白けた顔をして言うけれど、会長が逃げ腰になるのは仕方がないと思う。悲劇のヒロイン気取りの人間から、殺人の相談をされるなんて、思ってもみなかっただろうし。
『奥さまのことなら、殺してもいいと思っているのね。笹野さんがそのつもりなら、それでもいいわ』
『もちろん君のことは愛しているけれど、何も殺さなくてもいいんじゃないか』
「全くどういう顔をして、うちのお父さんはああいうセリフを吐いているんだろう」
笹野さんは、舌打ちしそうな顔をして言う。
『そうかしら。二人が私たちのことをばらしたら、もう二度と会えなくなってしまうわ。笹野さんはそれでいいのね。それなら、もう私、……死ぬことにします』
母は絶望感を出して言う。これはきっと演技だ。あの人は、よくそういうことをするから。
「ジュリエットお得意の手だよ。さすがに会長も引っかからないんじゃない」
「どうかな。うちのロミオちょろいから」
「こんなわざとらしい駆け引きに、引っかかる奴いないよ」
『死ぬなんて言わないでくれ! 俺がなんとかするから』
僕が半笑いで言った途端に、会長は悲痛な声を出した。
「嘘だろ……。なんとかするってどうするつもりなんだ」
「そういう人なの。できもしない癖に、勢いで言っちゃうタイプ」
『本当に。嬉しい。でも、笹野さんの言う通りかもしれない。家族を殺すなんて酷いことが、できるわけないもの』
『そうだよ。なんとか、ずっと二人でいられる方法を考えよう』
「今、絶対にホッとしていると思うの。お父さん」
「そうだろうね」
『そうね。ずっと一緒にいられるほうがいいわよね。ね、お茶でも飲まない? 手作りのハーブティーなの。きっと笹野さんも気に入るわ。鎮静作用があるの』
『そうだね。少し落ち着いたほうがいい。俺も君も』
会長の声から、緊張感が薄れた。なんて単純なんだろう。
母がお茶の準備をしているのか、二人の会話は止まったままだ。
「完全にこのまま逃げ切れると思っているよね、会長。あの人、そんなに甘くないよ」
「どうするつもりなのかな。森緒君のお母さんは」
小首を傾げて、笹野さんは言う。
「母は本気で殺すつもりはなかったみたいだね。会長のことを、試しているだけで」
やっぱり母はオオカミ少年なんだ。本当に殺す気なんてない。
笹野さんは返事をせずに、じっと庭を見つめている。
「笹野さん、聞いている?」
「ねえ、森緒君。庭にスズランがないの。確か、レシートには、スズランがあったって言っていたよね」
「うん。きっとどこかにあるよ。そこら辺のプランターの影にでもあるんじゃないかな」
笹野さんは毒植物に夢中なのか、目を細め、庭に植わっている植物をくまなくチェックしているようだ。
「森緒君。あの二人が死んじゃうのと、コウノトリさんが来ちゃうのだったら、どっちがマシだろう」
また来た。コウノトリだ。本当にそろそろ種明かしをしたほうがいいんじゃないだろうか。でも、伝え方が難しいな。笹野さんは、メルヘン国の住人だから、本当のことを言ったら卒倒してしまうかもしれない。
「死ぬよりはコウノトリのほうがいいよ」
「じゃあもし、コウノトリさんが来たら、森緒君の弟か妹ってことにしていい? 私、赤ちゃん苦手だから」
「わかった。それでいいよ」
僕はクスリと笑いながら答えた。
『少し苦味があるけど、我慢して飲んでね』
ハーブティーが入ったらしい。母の声がした。
『健康的なものは、まずいものが多いね。青汁とか苦手なんだけど、飲めるだろうか』
会長は、ハーブティーなんて飲みたくないんだろう。飲めなかったときの保険を掛けようとしているようだ。
『再び幸せが訪れますように』
母は意味深な言葉を口にする。どういう意味なんだ。
「……スズランの花言葉。そっか。そういうつもりだったんだ。だめ、森緒君が悲しむ」
「え、どういうこと?」
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