僕たちは恋をしない

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「解剖展のチケットを貰ったんだけど」 「行く以外の返事はないね」 笹野さんが最後まで言い終わらないうちに、僕は返事をした。 県立図書館の地下にある休憩室は、とても静かだ。まもなく閉館時間だからか、僕たちのほかには、自動販売機だけが低い唸り声をあげているだけで、人の姿もない。 「まだ日にちも言っていないのに」  笹野さんは出足を挫かれたのが気に食わないのか、口をへの字にした。きっと彼女のことだから、どう誘うかしっかり考えて来たんだろう。 「元々、僕も笹野さんのことを誘うつもりだったんだ。だから解剖展の日程は知っているよ」 「私を?」 訝しげに僕を見て、笹野さんは言う。 どうも笹野さんは、僕が本気で彼女のことを好きではないと思っている節があるようだ。 「笹野さん以外に誰がいるって言うんだろうね。仮にいたら、誘ってもいいの?」 涼しい笑みを浮かべて、僕は笹野さんに質問を投げかける。 「誘いたければ、誘えばいいと思うけど」 笹野さんは表情を変えないまま、気のない返事をする。そんなところがまた可愛いのだけれど、言うと怒りそうだから、僕は心の中だけで思っておくことにした。 「笹野さんってね、嘘をつくときに耳を触るんだ」 彼女は無意識に触っていた耳たぶから、パッと手を離す。 「あ、笹野さんの一緒に行きたい相手は、僕で良かったのかな。YESかNOで答えて」 彼女は黙り込み、ぷいっと横を向いた。どうやら答える気はないらしい。少しだけ待って、僕は勝手に解釈することにした。概ね当たっているだろうけれど。 「答えないというのも、一つの手段ではあるね。でも、人はだいたい、都合の悪い質問をされると黙り込む。それに笹野さんは、他人に自分の本心を晒すのが嫌いときている。ということは、おそらく僕を誘うつもりだったと推測できるよね。ありがとう。嬉しいよ」 にっこり笑うと、笹野さんは悔しいのか、納得がいかないというように更に口をへの字にした。彼女は、自分の気持ちを推測されるのが、本当に苦手なのだ。 「ところでさ、会長の様子はどう」 唐突な質問に感じたのか、彼女はまだムスッとしたまま、首を傾げた。 笹野さんのお父さんは、僕たちの通う高校でPTA会長をしている。彼は少し前まで、PTA副会長であるうちの母親と、不倫行為に勤しんでいた。 「最近は普段通りに見えるけど、うちのお父さん、また何かしでかした?」 笹野さんは呆れ顔で言う。 彼女の父親にたいする評価は、この上なく低い。――が、それは、何も不倫をしたせいではないようだ。 「普段から家庭内での地位は、猫より低いの」と、彼女は言っていた。ちなみに、笹野さんの家には猫はいない。架空の存在よりも地位が低いというのは、いささか哀れにも思えるけれど、更に評価を下げたのは会長の自業自得だから、僕も同情はしない。 「会長がというか、あの人がね。困ったことになっているんだ」 「え、森緒君のお母さんのところに、もしかしてコウノトリさんが来ちゃったの?」 とてつもなく嫌そうに、彼女は眉を顰める。 「いや、それはないよ。そうなったら、大問題だ」 「良かった」 笹野さんが心配しているのは、会長と母の不倫が公になって、家族がバラバラになってしまうことではなく、自分に弟や妹ができることらしい。 この前、公園のベンチで話をしていた時、ベビーカーを押して散歩をする女性が近くを通った。彼女は恐ろしいものを見たときのように、怯えた顔になる。 「赤ちゃんという生き物が、私には未知の生物に思えて、どうにも苦手なの。だって、何を考えているのか、さっぱりわからないでしょ」 「嫌いってこと?」 「違う。苦手なの」  笹野さんは、きっぱりと否定した。苦手ではあるけれど、嫌いではないらしい。 「苦手ね。よくわからないけど、とりあえずコウノトリは来ないから安心していいよ」 「それならいいんだけど」
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