僕たちは恋をしない

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「その話は置いておくとして。あの人、会長のことが忘れられないらしくてさ、同情を誘うようなことばかりをしているみたいなんだ」 母は昔から、子どもみたいなところがある。仕事で長期家を空ける父に帰ってきてもらいたくなると、とんでもない嘘ばかりつくのだ。 母の話の中で僕は何度も死にかけ、父が帰ってくる頃には、奇跡的な回復を見せている。母だって、父が帰って来られない仕事だということはわかっているのだ。帰れないことに罪悪感を持つような嘘ばかりをつくのだから。 しかし、何度も繰り返せば、父だって馬鹿じゃないんだから、母の言うことが嘘ばかりだということに気づく。そんな母に対して、父の気持ちが離れていくのは至極当然なことに思えるけれど、母はそれが分かっていても嘘をつかざるを得ない。他に気を引く方法を知らないからだ。 僕に対してもそうだ。すぐに同情を引くような嘘を言う。昔はそれを真に受けて、哀れに思ったものだけれど、今はまたかと思うだけだ。帰ってきても、いつも憂鬱そうな顔をしているところを見ると、おそらく父もそうなんだろう。今ではもう、家族は誰も信じない。母はイソップ童話の中のオオカミ少年になってしまった。 しかし、そんな母も会長と出会ったことで、すっかり父の存在が邪魔になったらしい。父に関する嘘を並べ立て、会長の気を引いたのは想像に難くない。 会長との会話の中で、父は暴力を振るい、浮気相手が世界中にいて、ギャンブルに大金をつぎ込むクズだ。 実際の父は、仕事以外に趣味の一つもない、面白みのない人間なのだけれど。 「例えば何をするの」 「今から死ぬと言って、高層ビルから撮った写真を送ってみたり、薬の詰まった瓶を並べた写真を送ってみたりね」 「本当に大丈夫なの? お母さん」 笹野さんは、可哀想なものでも見る顔をする。 「大丈夫。あの人が本気で死のうとすることなんて、絶対にないから。ただ気を引きたいだけなんだ。高層ビルは、ただの展望台だし、薬はビタミン剤だよ」 「そうなんだ。でも、お父さんはそういうのに弱いの。誰かのヒーローになりたくて仕方がない人だから」 「そうみたいだね。俺のことをそんなに愛してくれているなんて、諦めようとして悪かった。これからは、俺が君を守る、とか言っていたよ」 笹野さんは、不機嫌そうな顔に、更に眉間の皺を増やすことで、会長への不快感をあらわにした。 「どうして、うちのお父さんはそんなに愚かなのかしら」 「愚か度で言うなら、あの人も負けてはいない」 「ある意味、お似合いの人たちなのね」 ああ情けないというように、彼女はため息をつきながら肩を竦めた。 「それにしても、困っちゃうな。そんなに愛し合っているなんて、そろそろコウノトリさんが来ちゃうかもしれないよね」
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