僕たちは恋をしない

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笹野さんの話には、やたらとコウノトリが出てくる。彼女はどこで間違って覚えたのか、物理的に愛し合うことと、子どもができることがイコールになっていないのだ。 精神的な愛が深まると、コウノトリが赤ちゃんをどこからか連れてくるんだと、メルヘンの国の住人みたいに本気で思いこんでいるらしい。 「まだ大丈夫だと思うよ。所詮、不倫だしね。コウノトリも厳しめに見るんじゃないかな。僕らが早めに手を打たないといけないのは間違いないけど」 「そうだね。あ、そうだ。コウノトリさんが、私たちの赤ちゃんを連れてきたことにしたらどう? 前の比じゃなく、びっくりしてすぐに別れるんじゃないかな」 唐突にとんでもないことを言う人だ。僕と笹野さんは、キス以上のことをしていないというのに。 「あいつらもびっくりするかもしれないけど、万が一騒がれたら、僕たち二人とも、学校を退学になるかもしれない」 「フリなのに?」 「フリだと証明するのは、なかなか難しい問題だよ。あいつらはフリだと思っていないわけだし」 「ねえ、森緒君。私、ずっと思っていたんだけど、コウノトリさんは、どうやって恋愛成熟度を判断しているのかしら。一羽しかいないわけじゃないでしょ。それぞれのコウノトリさんの主観に基づいて判断されているとしたら、不公平なんじゃないかと思うんだけど」 一体どのタイミングで彼女の勘違いを正すべきか。僕にとって、これは悩ましい問題だ。 「コウノトリの世界にも、一応の基準はあるんじゃないかな。案外システマチックだったりして」 「一応の基準……」 笹野さんは真剣な顔をして、何かを考え込んでいる。 「ねえ、森緒君。私、思うんだけど」 「今日は質問が多いね。僕の質問には答えてくれなかったのに」 また、話の腰を折られてムスッとするかと思いきや、彼女は無表情を装いながらも、そわそわしているようだ。 器用なことに、両足を使って、何度も床にハートマークを描いている。なんてわかり易いんだろうか。笹野さんは。 「僕たちの恋愛成熟度は、まだ発展途上だから当分大丈夫だと思うよ」 彼女は、豆鉄砲を食らった鳩のように目を真ん丸にした。 「私、そんなこと」 「違った? どうやら僕の勘違いだったみたいだから、この話はやめよう」 「あっ、待って。せっかくだから」 せっかくの意味が分からないけれど、やっぱり考えていたんだろうな。 「私、考えていたの」 「何を」 「キスとかしないと、恋愛成熟度って上がらないのかなって」 「笹野さんの考える『とか』って何」 彼女は知られたくない気持ちがあるときほど、ポーカーフェイスになっていく。今やもう、能面のようだ。 「何って……、前にあの二人を騙す為にしたような」  真顔なのに、僅かに頬が紅潮してきているところが、笹野さんの可愛いところだ。 「笹野さん、そういうことしたいんだ。じゃあしよう」 「え?」 彼女は弾かれたパチンコ玉のように、素早くベンチの端までスライドした。 「今、ここで、何を?」 「そう、今ここでしようよ。どうせ誰もいないしさ。笹野さんのしたいキス『とか』をしても、ばれないよ。ほら、目を瞑って」 ずいっと彼女のほうに体をずらすと、笹野さんは蛇に睨まれた蛙のように固まった。目は見開かれたままで、瞬きすらしない。 「目を閉じたくないの? いいよ、僕も瞑らないでするから」 顔を傾けて、唇を触れさせようとしたとき、図書館の閉館を知らせる音楽が鳴り始め、自販機の横にある年季の入ったエレベーターの扉が開いた。 笹野さんは、瞬時に立ちあがり、僕と反対方向を向いて、他人のフリをした。 「残念、恋愛成熟度のランクアップならずだな」 僕も何食わぬ顔をして立ちあがり、出てきた男性と入れ替わりでエレベーターに乗ることにした。 「待って、森緒君」 笹野さんも慌てて、乗り込んでくる。 「置いていくなんて酷い」 「そういう笹野さんは、さっき知らない人のフリをしたよね」 「エレベーターに驚いてしまいまして」  笹野さんは僕に背を向けたまま、口の中でモゴモゴ言って、エレベーターの扉を閉めるボタンを押した。 「いいよ、じゃあこれでチャラにしよう」 「チャラ?」 ボタンを押し終え、振り向こうとした彼女を、閉じたばかりの扉に押し付けてキスをする。 図書館の古いエレベーターは、僕たちを繋げたまま、ゆっくりと上がっていった。 扉が開く寸前に塞いだ唇を離すと、彼女が茫然とした表情でつぶやいた。 「どうしよう。私にもコウノトリさんが来ちゃいそう」 多分独り言だろうし、聞かなかったことにしておこう。 大丈夫だよ、笹野さん、キスしたくらいでは、コウノトリは来ないから。
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