55人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
そう言って笹野さんの背中を押したとき、玄関のほうから母の声がした。誰かと喋っているらしい。
「森緒君のお母さん、帰って来たみたいだね」
「しっ」
聞き耳を立てても、何を話しているかまでは聞こえてこない。
「でも、森緒君のお母さんと一緒に話をしている声が、私のお父さんの声に聞こえるんだけど」
笹野さんはヒソヒソと耳元で話をする。
「え、会長なの」
「多分」
「笹野さん。今は鉢合わせると困るから、とりあえずそこに隠れよう」
玄関とは反対側に庭があるから、何か用がない限りは、すぐにこっちには来ないだろう。僕は笹野さんの手を引き、掃出し窓のすぐ脇にあるウッドデッキに上がった。壁に背をつけて座れば、リビングからは死角になるはずだ。今はカーテンが閉まっているから、中の様子は見えない。
「自宅に不倫相手を呼ぶなんて、あの人は何を考えているんだろうな」
我が儘な人なのは分かっていたつもりだけど、頭までおかしくなったんだろうか。
「大胆なロミオとジュリエットは、ここで何をするつもりなのかな」
笹野さんも僕に合わせて、小声で話してはいるけれど、のんびりした様子だ。おそらくメルヘン国の住人である笹野さんは、会長がお茶でも飲みに来たと思っているに違いない。
「母は帰ってくると、いつも窓を開けるから、リビングの会話なら聞こえてくるはずだよ」
会話をするつもりならだけど。さすがに自宅で行為に及ぶとは思いたくないけれど、最近の母の行動を見ていると、心配なところではある。二人が絡んでいるところは見たくないし、変な雰囲気になったら、上手く庭から出ないとな。
しばらくして、カーテンが開いた。窓の鍵を開ける音がして、僕も笹野さんも息を止めて壁に張りつく。窓を少し空けると、母の気配は遠のいていった。
にゃあお。
きなこが鳴く声が、とても近くで聞こえた。匂いで、僕がここにいるのをわかっているのかもしれない。
笹野さんは心配そうに、僕の顔を見る。僕は静かにと、唇に指を当てた。きなこが窓際にいるのはよくあることだから、母もわざわざ覗いたりはしないだろう。
『きなこ、どうしたの? 鳥でもいるのかしら』
それでも、母の声がするとドキッとする。大丈夫だ。ばれたところで、気まずいのは向こうなんだから。
『どうしたんだい。急に家に来て欲しいなんて』
この声は確かに会長の声だ。やっぱり母が呼んだのか。母の浅はかな行動に、僕は思わずため息を漏らした。
『座って。二人のことで大事な相談があるの』
『それなら、外のほうが』
『大丈夫。あの人は、まだ海の上にいるから。急に帰ってくることなんて、これまで一度もなかったもの』
それは本当のことだけど。母は、万が一ということを考えるつもりもないらしい。
『わかったよ』
椅子を引く音がした。会長が座ったんだろう。
『お茶を淹れるわ』
『いや、いいよ。それより早く話を』
落ち着かないのか、会長は、そわそわした声で話す。
『そんなに心配? 何があっても、ずっと二人でいるって言ったのに。嘘だったのかしら』
母はからかうように笑いながら言う。
『そういうわけじゃ。ただ、羽風(はか)君もそろそろ帰ってくるかもしれないし、鉢合わせしたら困るんじゃないかと思って』
『今日は遅くなるって言っていたから』
『それならいいんだが……』
笹野さんが僕をちらりと見た。
「遅くなるって言っておけば、あの人が出かけると思ったんだ」
僕は彼女の耳に口を寄せて言った。笹野さんは、それがくすぐったかったのか、耳をさすっている。
『羽風がね、私たちのことに気づいている気がするの』
僕と笹野さんは、顔を見合わせた。
『まさか! 羽風君とうちの夏菜子が付き合っているみたいだと言ったのは、君じゃないか。だいたい僕らのことに気づいているのなら、憎みあうならともかく、付き合ったりしないと思うけどな』
まあ、それが普通の反応だろうけれど、親が親なら子も子だとよく言うじゃないか。
『羽風は、とても頭が切れる子なの。だから、よく考えてみれば、うちに夏菜子さんを連れて来て私に見せつけたのは、わざとなんじゃないかと思えて』
母にしては、珍しくいい勘をしている。
『じゃあ、夏菜子は羽風君に騙されているということかい?』
会長の声が、わずかに堅くなったように思えた。不倫中とはいえ、娘のことは大事に思っているらしい。
『それは私にはわからないけれど、羽風が知っているとしたら、夏菜子さんももう知っているんじゃないかしら。よく二人で会っているみたいだし』
『そんな……』
最初のコメントを投稿しよう!