僕たちは恋をしない

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 そう言って笹野さんの背中を押したとき、玄関のほうから母の声がした。誰かと喋っているらしい。 「森緒君のお母さん、帰って来たみたいだね」 「しっ」  聞き耳を立てても、何を話しているかまでは聞こえてこない。 「でも、森緒君のお母さんと一緒に話をしている声が、私のお父さんの声に聞こえるんだけど」  笹野さんはヒソヒソと耳元で話をする。 「え、会長なの」 「多分」 「笹野さん。今は鉢合わせると困るから、とりあえずそこに隠れよう」 玄関とは反対側に庭があるから、何か用がない限りは、すぐにこっちには来ないだろう。僕は笹野さんの手を引き、掃出し窓のすぐ脇にあるウッドデッキに上がった。壁に背をつけて座れば、リビングからは死角になるはずだ。今はカーテンが閉まっているから、中の様子は見えない。 「自宅に不倫相手を呼ぶなんて、あの人は何を考えているんだろうな」  我が儘な人なのは分かっていたつもりだけど、頭までおかしくなったんだろうか。 「大胆なロミオとジュリエットは、ここで何をするつもりなのかな」 笹野さんも僕に合わせて、小声で話してはいるけれど、のんびりした様子だ。おそらくメルヘン国の住人である笹野さんは、会長がお茶でも飲みに来たと思っているに違いない。 「母は帰ってくると、いつも窓を開けるから、リビングの会話なら聞こえてくるはずだよ」 会話をするつもりならだけど。さすがに自宅で行為に及ぶとは思いたくないけれど、最近の母の行動を見ていると、心配なところではある。二人が絡んでいるところは見たくないし、変な雰囲気になったら、上手く庭から出ないとな。 しばらくして、カーテンが開いた。窓の鍵を開ける音がして、僕も笹野さんも息を止めて壁に張りつく。窓を少し空けると、母の気配は遠のいていった。 にゃあお。 きなこが鳴く声が、とても近くで聞こえた。匂いで、僕がここにいるのをわかっているのかもしれない。 笹野さんは心配そうに、僕の顔を見る。僕は静かにと、唇に指を当てた。きなこが窓際にいるのはよくあることだから、母もわざわざ覗いたりはしないだろう。 『きなこ、どうしたの? 鳥でもいるのかしら』  それでも、母の声がするとドキッとする。大丈夫だ。ばれたところで、気まずいのは向こうなんだから。 『どうしたんだい。急に家に来て欲しいなんて』 この声は確かに会長の声だ。やっぱり母が呼んだのか。母の浅はかな行動に、僕は思わずため息を漏らした。 『座って。二人のことで大事な相談があるの』 『それなら、外のほうが』 『大丈夫。あの人は、まだ海の上にいるから。急に帰ってくることなんて、これまで一度もなかったもの』 それは本当のことだけど。母は、万が一ということを考えるつもりもないらしい。 『わかったよ』 椅子を引く音がした。会長が座ったんだろう。 『お茶を淹れるわ』 『いや、いいよ。それより早く話を』 落ち着かないのか、会長は、そわそわした声で話す。 『そんなに心配? 何があっても、ずっと二人でいるって言ったのに。嘘だったのかしら』 母はからかうように笑いながら言う。 『そういうわけじゃ。ただ、羽風(はか)君もそろそろ帰ってくるかもしれないし、鉢合わせしたら困るんじゃないかと思って』 『今日は遅くなるって言っていたから』 『それならいいんだが……』 笹野さんが僕をちらりと見た。 「遅くなるって言っておけば、あの人が出かけると思ったんだ」 僕は彼女の耳に口を寄せて言った。笹野さんは、それがくすぐったかったのか、耳をさすっている。 『羽風がね、私たちのことに気づいている気がするの』 僕と笹野さんは、顔を見合わせた。 『まさか! 羽風君とうちの夏菜子が付き合っているみたいだと言ったのは、君じゃないか。だいたい僕らのことに気づいているのなら、憎みあうならともかく、付き合ったりしないと思うけどな』 まあ、それが普通の反応だろうけれど、親が親なら子も子だとよく言うじゃないか。 『羽風は、とても頭が切れる子なの。だから、よく考えてみれば、うちに夏菜子さんを連れて来て私に見せつけたのは、わざとなんじゃないかと思えて』 母にしては、珍しくいい勘をしている。 『じゃあ、夏菜子は羽風君に騙されているということかい?』 会長の声が、わずかに堅くなったように思えた。不倫中とはいえ、娘のことは大事に思っているらしい。 『それは私にはわからないけれど、羽風が知っているとしたら、夏菜子さんももう知っているんじゃないかしら。よく二人で会っているみたいだし』 『そんな……』
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