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 変わらぬ日々が続き、薫はすっかり、あの男のことは忘れていた。  二週間ほど経ったある日の夜、二人の女性客が訪れた。一人は、あの雨の夜、一人で来ていた、薫の苦手な年上の女性だった。 「……いらっしゃいませ」 「こんばんは、薫くん」  彼女は、一人ではない時は、いつも同じ女性と一緒にやってくる。薫は内心、名前を呼ばないでほしい、と思った。それは自分の名前が嫌いだったことと、まるでプライベートに踏み込まれている気がしたからだ。二人は、この店でひとつしかない、同じカクテルを頼み、薫は黙ってシェイカーを振っていた。 「それにしても寒いよねー」 「そうそう、雨が降ると余計にねー」 「……雨?」  薫はぼんやりしていたが、よく見ると、ドアの側の傘立てに華やかな色の傘が二本、置かれていた。 「そう、今日、夕方から雨降ってるんだよ。薫くん、知らなかったの?」 「……ええ」  三時頃には買い物を終えて、カウンターの中で仕事をして、その合間に本を読む。この店の以前の持ち主はカラオケバーをやっていたらしく、一階の防音だけはしっかりしているので、半端な音は聞こえない。その日も薫は二人が来るまでずっと支度をして、その後、本を読んでいたので、まったく気がつかなかった。急に、あの男のことを思い出す。あれから、彼は一度も店に来なかった。当たり前のことだろう、と思ったが、どこか、心の片隅に、小さな失望もあった。薫はそんな自分が嫌だった。 「……どうぞ」 「ありがとう」 「……おいしいー! これって、薫くんの創作なんだよね」 「……ええ、まぁ」 「そうだよ、薫くんはこれで、コンテストで賞を取ったんだよねー」  薫はあいまいに頷いた。あまり、賞を取った時のことなど、思い出したくない。あまりいいことのなかった時代だ。ほんの少しの希望を込めてつけた「Bird」という名前と爽やかなブルーが、なんだかとても哀しく思えるから。  適当なつまみを皿に盛っていると、静かに扉が開いた。 「いら……」  薫は息を飲んだ。あの男だ。言葉が出てこない。二人の女性は、薫の顔を見て、それから店に入ってきた、黒いコート姿の男を見た。薫は内心、慌てて、必死に無表情を装った。二人が気づくほど、あからさまに感情を、顔に出したのだろうか。まるであの夜のことが気づかれてしまったかのような恥ずかしさで、薫は身がすくむ思いだった。  男はビニール傘を置き、コートを脱ぐと、あの日と同じように、ドアに一番近いスツールに座った。この男にその傘は似合わないような気がしたが、どこか途中で雨に降られて、とりあえず買ったのだろう、くらいにしか、薫は思わなかった。薫が手を差し出すと、男はコートを渡してきた。軽くタオルで押さえて、滴を拭き取ると、壁にそれを掛けた。二人の、薫を追う視線が痛い。なんなんだ。薫は速まる胸の鼓動が聞こえてきそうで、CDを取り出し、違うものに変えた。キース・ジャレットの、軽快だが、神経質な音が、薫の気をまぎれさせてくれる。眼鏡を押し上げて、男をちらりと見ると、彼はまた、窓の外をぼんやりと眺めていた。まただ。あの、淋しげな横顔。薫はあの日と同じカクテルを作り、男の前に、静かに置いた。彼は、窓を見つめたままだった。薫はまた二人のためのつまみを整え、前に差し出した。それから、しまった、と思った。この店では、カクテルは「bird」しか作っていない。あの男に出したのは、客に出したことのないカクテルだったのだ。二人を見ると、やはり、視線が男の前に置かれた、湯気の立つタンブラーに行っている。薫は重い気分で、とりあえず気を逸らすために、二人に声を掛けた。 「そういえば、優香さんは、お仕事、いつまでなんですか?」 「……え、え?」  薫の苦手な年上の女性、優香は、びっくりしたように薫を見た。また、失敗した。薫は内心、舌打ちをする。優香に、自分から話しかけたことなど、一度もないのだから。明らかにあの男を意識しているのが、わかってしまう。せめて、無表情だけは装っていよう。薫は気を引き締めた。 「あ、ええと」 「年末は二十五日までだよ」  隣りの友人が助け船を出す。 「そうですか」 「薫くんはいつからいつまでお店休むの?」 「え、ああ、考えてなかったな……」 「実家はどこなの?」  そこまで立ち入られてくるとは。薫は必死になって、考える。 「実家……両親が離婚しているので」 「え? ……ごめんなさい……」 「いえ」  よかった。これ以上はなにも話したくない。時に事実は役に立つものだな、と、ほっとする。  薫はその場を逃げて、洗い物を始める。男がなにをしているのか、なんとなく見たいが、二人の視線が痛い。居心地が悪い。  今日も雨。偶然だろうか。それとも……。 「…………っ!」  パン、と、小気味良い音がして、薄いグラスが割れた。慌てて拾おうとして触れると、冷たい指先に、ちくっと痛みが走った。 「薫くん! 大丈夫?」 「…………」  薫は左手の中指の先を見た。思ったより切れたらしい。血が溢れて、手のひらにひとすじ、流れてくる。視線の向こうに、割れたグラスの破片の、鋭い切り口。鈍い光に、くらりときて、薫は思わず目を閉じた。そのまま背後の棚に体当たりするような形になり、そのまま、視界が歪んでいくのが見えた。遠くで、高い声がする。ピアノの音色が耳の奥で不快に響き、薫はそのまま、その場に座り込んでしまっていた。  目を開けると、目の前に、あの男がいた。口元になにか当てられている。ぼんやりとして、それを見ると、透明なビニール袋だということがわかった。自分の息で、白くなったり、縮んだりしている。男が濡れたタオルで、薫の額を拭いてくれる。その冷たさが気持ちよくて、薫はもう一度、目を閉じた。少しずつ、呼吸が整っていく。いつもきちんと、全部締めているシャツのボタンを、ひとつ緩めようと、震える指先で辿ると、そこはもう、すでに開かれていた。これも男がしてくれたのだろうか。全身の汗が、少しずつ引いていき、やっとぼやけていた視界がはっきりしていく。少し上を見ると、そこには不安げな目をした、あの二人がいた。身体をカウンターから乗り出して、薫を見つめている。薫は男に視線を移した。男は、大丈夫だよ、というように、ほんの少しだけ、やさしく笑っていた。 「……すみませ……」  薫は、流し台に手をやると、ゆっくりと立ち上がった。ふらついたが、男は、手を貸さなかった。両手で強く縁をつかみ、薫は手元を見る。すでに中指には見慣れない、ピンクの絆創膏が貼られており、壊れたグラスはもうなかった。薫は、三人に小さく頭を下げた。  発作だった。ある条件が揃うと、薫は過呼吸の発作を起こす。安定剤を飲みたい。でも、客の前で、それははばかられた。とにかく、なにか、他のことを考えよう。男がまた、カウンターに戻るのを見ながら、薫はとりあえず、また、CDを変えることにした。ビル・エヴァンスの、軽い、心地よいピアノに集中しながら、しばらく、その場で固く目を閉じていた。 「……今日は帰るね」  優香が、小さく、そう言った。友人も、そうだね、と言って、二人は立ち上がった。 「早く休んだほうがいいよ」 「……申し訳ございません」  薫は小さく頭を下げる。さっと、伝票に、いつもより安い金額を書き込むと、二人の前に置いた。 「ゆっくり休んでね」  薫は頷いた。今日はドアまで送ろう、と思い、カウンターを出ようとすると、優香がそれを手で制した。黙って、二人は出ていく。ドアを開けると、湿った、雨の匂いが店に流れ込んできた。大きく、深呼吸すると、胸の中が、潤ったような気がする。疲れた。発作を起こしたのは、何年ぶりだろう。忘れていた記憶がよみがえり、薫は、小さく頭を振る。まるで、忘れるな、と言われんばかりに、時々、それは、やってくる。もう、忘れたいのに。どうして、自分には、楽しい、美しい想い出がないのだろう。思い出すのは、嫌なことばかりだ。かたん、と小さく音がする。薫はすっかり、男の存在を忘れていた。男は立ち上がり、コートを取りに歩いてきた。帰らないで。瞬間的に、そう、思った。いつもの薫なら、こんな時、すぐに客には帰ってほしいのに。自分はいったい、どうしてしまったんだろう。薫はそう思いながら、ふらふらと男のほうに歩いていった。  あの日と同じように、コートに手を掛けた男の手に、薫は触れた。冷たい手。今は、とても、心地よい。薫は眼鏡を外すと、自分をじっと見つめている男の胸にもたれた。疲れた。泣きたい。叫びたい。けれど、言葉も、涙も、出なかった。ただ、ひたすら、男が抱きしめてくれることだけを願った。その願いが通じたように、ゆっくりと、男の腕が背に伸びてきて、やさしく薫を抱きしめてきた。  ベッドに誘っても、男はただ、薫を見つめるだけで、なにもしてこなかった。むりやり抱いて、壊してほしい。そして、ゆっくりと眠りたい。そう思いながら、薫は、本当はこのまま、男に見つめられていたかった。薫は横になったまま、ベッドの端に座っている男の膝の上に置かれた手の上に、自分の手を重ねた。その上に、男のもう片方の手が重ねられる。大丈夫、そんなふうに、男は薫の傷ついた指を撫でた。不思議と、薫は、気持ちが穏やかになっていくのを感じていた。傷に触れられて、まるで、むきだしの心に触れられているようなのに、辛くはない。癒される。まさに、そんな言葉が合う。許される気がする。ここにいてもいいのだ、と、居場所があるのだ、と思わせてくれる。  雨の音がやさしく聞こえる。暗い部屋の中で、薫は、こんな時間がいつまでも続けばいいのに、そんな、夢のようなことを考えていた。 「…………?」  気がつくと、男はもう、いなかった。まただ。熟睡していた。時計を見ると、まだ五時半で、外は暗かった。薄暗い部屋の中で、薫はぼんやりと男が座っていた辺りに触れてみる。冷たい。いつ、眠ってしまったんだろう。なにか、懐かしいものを見るような、やさしい目だった。ずっと、その目で見つめていてほしかった。あんなふうに、見つめられたことなど、なかったから。なにもかも、諦めたはずなのに。なのに、どうして、こんな想いが溢れるのだろう。渇いた土に染みる水のような存在。薫は、歯止めが利かなくなりそうで、怖かった。どんなに欲しがっても、あの男は、決して手に入らない。なぜか、そんな予感がした。  薫は着替えをして、階下に行き、薄暗い明かりをつけ、外の新聞を取った。テレビが苦手なので、新聞だけ取るようにしている。冷蔵庫からミネラルウォーターの小さなボトルを一本取ると、スツールに座った。カウンターには、昨夜置いた眼鏡があって、その下に一万円札が折って置いてあった。あの男だろう。こんなに金を置いていくなんて。薫はため息をつき、眼鏡を手に取り、しばらく眺めた。プラチナの縁取りの、度無しの眼鏡。薫は眼鏡をするほど、目が悪いわけではなかった。これは他人と自分の間にある壁だ。その壁がないと、薫は外の世界を見ることができない。素の姿でいられないのは、傷つけられるのが嫌だから。本当の自分を知られるのが怖いから。これがあるだけで、薫は別の人間になることができる。そうでなければ、接客業などやっていられなかったと思う。それを横に置いて、薫は半月ほど溜め込んでいた足元の新聞を取り上げ、一番下から読んでいくことにした。一面からぱらぱらとめくり、とりあえず、外の世界でなにが起こっているのかを眺めていく。特にいい記事などない。よく読めば、ため息が出るようなことばかりで、薫はいい加減にめくっていたが、ふと、その手が止まった。それは殺人事件の記事だった。ある医師が、妻を殺して逃亡中との記事だ。殺人犯である医師と、殺された妻の写真が並んで掲載されている。その医師の写真に、薫は思わず、頭の中が真っ白になった。  画質は悪いが、あの男に間違いない。あの、雨の夜に現れる、謎の男。ただの、一言も交わしたことのない、あの男。淋しげな瞳の……。  薫は慌てて、文字を追った。事件は二週間前のことだ。三十代にして、有名な心臓外科医である橋本喬一は、長く病気を患っていた妻の結衣子の点滴に劇薬を混入し、死に至らしめ、現在、逃亡中、ということだった。  二週間前。薫は頭をフル回転させて記憶を辿るが、なかなか思い出せない。雨が降ったあの日。初めてあの男がやってきた日。彼はコートの襟を立てて、慌てて薫の店に走りこんだのだ。雨に突然降られたのではなくて、警察に追われていて? まさか、あの日に、妻を殺したのだろうか。入院していた病院は、ここからそう遠くはない。薫はわけがわからず、もう一度、写真を見つめた。間違いない。そして、妻の写真を見つめる。美しい人だった。清楚で、それでいて、凛とした気品が感じられる。そのまなざしに、まるで責められているようで、薫は新聞を乱暴に閉じて、丸めてカウンターの奥へと行き、ゴミ箱の下に押し込んだ。呼吸が辛い。薫は両手で頭を抱えた。どうして。どうして、人を殺しておいて、しかも妻を殺しておいて、あんな目をする? あんな淋しげな瞳で、薫を見つめる? どうしてあんな抱き方をした? どうして自分の犯した罪から逃げる? どうして逃げ続ける? どうして危険を冒してまで、また薫に会いに来た? また来るのか? 自分はどうすればいいのか? なにもかもがわからない。薫はその場に座り込んで、膝を抱えた。なにも考えたくない。考えたくないのに。あの男のことが、頭から離れない。嫌だ。嫌だ。膝に額を擦りつけて、薫は声にならない声を上げ続けた。
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