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駅前の歩道橋にもたれかかって、わたしは行き交う人たちを見ていた。
日の暮れかける初秋だった。
すでに夏の名残は遠くにあって、空気は澄んで雲一つない。大きな太陽がゆっくりと沈んで行く。
塾の鞄がとても重くて、肩紐が食い込んで痛い。
逢魔が時とは誰が言ったのか。青と紫のコントラストが曖昧になって、魔と出逢うひととき。その魔物がわたしにささやいた。
ここから飛び降りる。歩道橋から飛び降りて、車の行き交う道路へその身をたたきつける。
そうしたら、どうなる?
馬鹿らしいと思わず笑う。
何を言ってるんだ、ただ死ぬだけ。別に死にたいわけでもないのに何を考えているのだろう、わたしは。
早く家に帰ろう。夕食を食べて風呂に入ればすぐに忘れる。
でも、わたしはその場を動けずにいた。足が呪いにかかったかかのように歩道橋にはりついていて、ここから飛び降りるという誘惑に勝てずにいる。
ふと思いついて、ひとつ賭けに出ることにした。
あの人混みのなかに、1人でも知り合いがいたなら、飛び降りない。人混みに混ざり合い、帰るべき場所へ帰る。
でも1時間のうちに誰も見つけられなかったら…飛び降りる。
決めてしまうと心は凪いで、わたしはじっと人混みに目を凝らした。
探しているのは、知っている顔だった。特にだれか特定の人を探しているわけでは無い。だれか、わたしの知っているだれか。
でも、雑踏を行き交う人たちは皆見覚えがない。急に知らない街のように思えてくる。
容赦なく日は沈み、段々と空の紫が濃くなり始めた。
時計を見ると、賭けが終わるまであと数分だった。
人混みはただのシルエットの塊に変わりつつあり、顔の判別がほとんどつかない。ところどころの街灯が一瞬、人々の顔を照らしているだけだ。
わたしは鞄を肩から降ろした。肩が軽くなる。体も軽くなった気がする。鉄の手すりをよじ登るために靴を脱ぎかけて…わたしはその人を見つけた。
飛び抜けて背が高いシルエット。スーツを着ているが、そのスーツにも見覚えがあった。極端に袖と裾が短いのだ。
小学1年の時の担任だった。地味で、声が小さい気弱な先生。いつも汚いジャージを着ていて、式典の時にだけ着るスーツもよれよれでサイズが合っていなかった。親からは頼りないと陰口を叩かれていた、あの先生。
名前がどうしても思い出せない。
でも、わたしはこの先生のことがとても好きだった。
「すばらしい!」が口癖で、そう褒めてもらうと心の底から嬉しかった。その気持ちが蘇る。
隣のクラスの女の先生。若くて優しいけど怒ると金切り声でヒステリーになった。あの先生はどんな顔をしてたっけ。
小学校で初めて声をかけてくれた女の子。わたしの消しゴムを取り上げてとうとう返してくれなかったあの男の子は元気だろうか。そういえば、あそこを行く中学生は、彼に似ている気がする…。
そんなことを考えていたら、すっかり辺りは暗くなっていた。下を覗き込むと、さっきまでわたしを誘惑していたアスファルトはただの黒い道になり、車が光の線を引いている。
賭けは終わったのだ。
大きく息を吐き出すと、さっき下ろした鞄を勢いよく背負い直した。
歩き出そうとして、思う。
さっきの人は本当にあの先生だったのだろうか。わたしは、違う誰かに乗せて人混みの中から先生を無理矢理に見いだしたのではないだろうか。
もう一度人混みを見つめる。
もうあの先生らしき人はいない。
どこかへ行く人たち。
ふいにその一人一人がみんなどこかで会ったことのある人たちに思えた。
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