74人が本棚に入れています
本棚に追加
1.例えばそれは
日本国内だけでなく、国際的にもそのまんまで意味が通じるとか言われている『可愛い』という言葉があったりする。
勿論、そういった類の言葉は他にもいくつかあって、例えば災害の『津波』とか、あるいは『勿体無い』なんかもそれなりに有名らしいとのこと。探せばいくらでも出てきそうなものだ。
――さて。可愛いとは、例えばそれは、無邪気な子供の笑顔について形容したもの。
あるいは、野に咲く小さくて可憐な花について表現したもの。
はたまた、愛らしい表情のぬいぐるみについて説明したもの。
深い愛情を持ち、その対象を大切に扱ってやりたいと思う気持ちそのものであること。
使い方としては、お爺ちゃんやお婆ちゃんが笑顔で見守るような『私の可愛い孫』とか。悪戯ばかりして部屋を散らかし放題の、親が溜息をつきながらも一生懸命に育児をしているような『馬鹿な子ほど可愛い』とか。
くどくなってしまったが、愛らしい雰囲気と言うべきか、魅力をもっていることはとにかく共通していることだろう。
女の子や子供、小動物などに対して『可愛いお子様ですね』とか『可愛い女の子だなぁ』というような感じで用いたりする。
逆に、生真面目で気難しそうでおっかなそうな仏頂面をした堅物おじさんが、実は甘い物が大好きだったり、若いアイドルの大ファンだったりとか、そういったギャップもまた、可愛いなどと表現されたりするものだろう。
とにかく一言に可愛いといっても、その意味はいっぱいあるわけだけども。彼……どこにでもいるような、至極平凡な高校生の男子である、沢村純也くんにとっての可愛いという存在はまさに、彼の幼なじみであり、彼女さんでもある女の子が該当するのだった。
……実のところ、彼にとって幼馴染みの女の子は他にももう一人いるのだけども、その子について彼は『え? 紗理奈? ああ、うん。まあ、その、可愛いと思うよ? けど、あいつはどちらかっていうと、可愛いというより男勝りで格好いいとか、勇ましいとか、強いとか、そんなふうにいった方がいいかも?』という、ちょっとぞんざいな扱いなのだった。
その説明を当の本人である紗理奈ちゃんという子が聞いたとしたら、きっと立腹することだろう。コラ純也! 何だその言い草は! あたしだってこれでも年頃の女の子なんだからな! とか、大いに拗ねながら。
けれど残念ながら今、純也はそんな事を考える余裕を持ち合わせてはいなかったのだった。
何故ならば、極めてのっぴきならない、緊急事態におかれていたのだから。
(ひなちゃん)
唐突だけれども、彼が今いる場所は病院だった。
安っぽい丸椅子に腰かけている純也。その側。ベッドに横たわって目を閉じて、静かに眠り続けている女の子は、純也にとって誰よりも可愛い人だった。
けれど、今の姿は可愛いというよりも、とても哀しく見えてしまう。体の所々に巻かれた包帯が実に痛々しく見えるほど、絶対安静の状態なのだから。
(どうしてこんな事になっちゃったんだろ?)
情けない事に、純也は後悔すらできなかった。ただひたすら、針のむしろに腰掛けるが如く、精神的に打ちひしがれていた。
あの時、純也は本当に何もできなかったのだ。その無力感に苛まれ、涙を流すこともできず、ただひたすら呆然とし続けていた。
それが起きたのは、ほんの僅か数時間前の出来事だった。
――十月も中頃。毎年繰り返されている記録的な猛暑という、うんざりするくらいにひたすら暑かった日々が、ようやくのことで過ぎ去ったと実感する頃。
空気が澄み切って空が高く見え、秋が訪れたことを気付かされるような晴れた日のこと。
いつものように日は昇る。彼の場合は高校生という身分なので、朝起きてからあくび交じりに腕をぐぐっと伸ばし、いそいそと制服へと着替えを済ませ、朝食を食べてから学校へと向かうことになる。
彼自身、本当に定まったルーチンワークだと思っていたし、別段そういうのが嫌いなわけでもなかった。時折退屈だなーとは感じることはあるけれども、怒り狂って全てを破壊してしまいたくなるような、いわゆる中二病のような感情を抱く事もまた、無いのだった。退屈な日常というものは貴重なものであり、激しく嫌悪するものではないと思っていた。毎日、多少の変化はあるかもしれないけれど、基本的には今後もずーっと同じような日常が続くものだと彼は信じて疑わなかった。
学校に行く途中。彼は自宅のお隣に住んでいる、クラスメイトで幼なじみで、愛しの彼女さんな女の子こと『ひなちゃん』に会いに行くのだった。
ひなちゃんこと、桜美日向ちゃんの家に立ち寄って、玄関のベルを押す。これはもう、日課だ。
予定が合わないとか、互いに何かしら特別な用事でもない限り、回避フラグなんて発生しようもない、毎日のように続く行為だった。
彼が迎えに行くこともあれば、逆に彼女の方から来てくれることもある。もっとも、彼は基本的に朝という時間にかなり弱い方だから、殆どは彼女の方から迎えに来てもらってばかりなのだけども。
たとえば、こんなふうに……。
◆ ◆ ◆ ◆
――街にある、ごく普通の分譲住宅地。その一角にある桜美家と、お隣にある沢村家での朝の一コマ。
沢村家の二階。純也の自室にて、朝における騒がしいイベントがこれから始まろうとしていた。
「純ちゃん~」
朝日の眩い光が、純也のまどろみタイムをさっさと終わらせようとしている。それに対して純也はとても往生際が悪く、嫌だ、まだ起きたくないよ、僕はこの心地良い眠りにまだしばらくの間浸っていたいんだ! まだ僕を起こさないでくれ! と、そんなふうに不毛な抵抗を続けていた。
だが。事態はすぐに動く。そう。彼女が来たのだ。幼馴染みの、とびきり可愛い女の子が、わざわざ起こしに来てくれたのだ。
「朝だよ~。起きて~」
「……はい」
その声を聞いたならば、話は別だ。起きなければいけない。むしろ、起きさせてくださいとすら思える。
すっごく優しくて可愛くて、思わず抱きしめたくなっちゃいそうな彼女さんが、自分に声をかけてくれているのだから、無下にすることなどできないのだ。
何度か瞬きをしつつ、純也が目を開けてみるとそこには、眼鏡をかけた制服姿の女の子が微笑みかけてくれていた。誰よりも親しい関係の、見知った彼女が。
「純ちゃんおはよ。朝だよ」
「ひなちゃんおはよ。あ~。また、寝過ごしちった。……毎度毎度すんませんね」
「どういたしまして」
ああ、またやってしまった。うっかり寝過ごして、彼女による朝起こしサポートを発動させてしまったのだった。純也は常々、あんまりそういう迷惑を彼女にかけたくないと思っていたのだが、時々このようになってしまうことがあるのだった。
勿論、対策だって考えて立てていた。このようにならないようにと、目覚ましを複数個セットしておいたのだ。けれども、無意識のうちに全てストップしてしまったようなのだ。まったく、情けないったらありゃしない。
寝起きなので着崩したパジャマ姿。髪もボサボサで、目ヤニもついていて、とても人様にお見せできるような状態ではないという無様さを晒している純也くん。けれど、日向は咎めることもなく、おかしそうにくすくすと笑っていた。しょうがないなあと、そう思っていそうだ。その様はとても包容力があって、お母さんのよう。
「夜更かししたの?」
彼氏がゲーム好き、アニメ好き、コミック好きということは日向もよく知っている。何か面白いものがあって、ついつい時間を忘れてハマっちゃったのかな~と、そう思ったのだったが、純也の返答によると今回はそうでもないようだった。
「んー。日付変わる前には寝たはずなんだけどねー」
「そうなんだ」
早寝はしたはずなのだが、今回は単純に、眠たいだけだったようだ。
「ほら、寝る子は育つって言うじゃない」
「うんうん」
そんな純也の言い訳も、日向は否定すること無く受け入れてくれる。本当にもう、なんていい子なんだろうと、純也は思う。これがもう一人の幼馴染みであったならば『コラ純也! キリキリ起きろ! アホな事ぬかしてないでさっさと準備しろ! 遅刻するだろが!』といったような、鬼軍曹のような対応をとられることだろうけれども。
「わざわざごめんね。すぐ用意するから、ちょっと下で待ってて」
「は~い」
着替えて、顔を洗って髪を整えて、朝食を取ってと。そんな流れが続いていく。日向は純也が慌てながら準備をしている間、一階にて座って待っていてくれるのだった。
純也の両親も日向にとても感謝していて、お茶なんかを出してくれるのだった。本当にもう、ウチの息子には過ぎた彼女さんだねと思いながら。
「純也。早くしなさい。可愛い彼女をいつまでも待たせてるんじゃないわよ」
母の声が階下から聞こえる。
「あ~はいはい。わかってるって」
時間的にはまだ余裕はあるけれど、それでも、腕時計の針がこの辺りになったら『そろそろ行こうかな』という、タイムリミットが日向と純也にはあるのだった。
それを守れなさそうな時、日向は純也の部屋まで上がってくるのだ。両親すらも公認の、時々見られる恒例行事と化していた。
ちなみに、このようなイベントが行われている事実をクラスの男子連中が知った時のことは、今でも忘れられない……。
「てめぇ! 幼馴染みの可愛い彼女に起こしてもらってるだなんて、贅沢すぎるぞ!」
「そーだそーだ! ふざけんな馬鹿野郎!」
「どこのギャルゲーだよそれ!」
「俺と代われこのリア充野郎!」
と、散々羨ましがられたものだ。
おお、考えてみれば確かに贅沢過ぎる話だ! 恵まれまくってるぞ僕は! と、純也は自らの幸せを噛みしめるのだった。
しかし! だからといって彼女に甘えてばかりではそのうち愛想も尽かされてしまうかもしれない。しっかりしなければならない。……そう思ってはいるのだけど、わかっちゃいるけどやめられないといったところか。
「ひなちゃんお待たせ~」
「お疲れ様」
ようやくの事で登校する準備が整った純也が、二階から降りてきた。その頃日向は、落ちつきながらお茶を飲んでいた。
「まだ、時間に余裕はあるよ。焦らなくても大丈夫だから、慌てないでね」
「そっか」
純也は想像する。
……突入もとい、朝起きができなくてとてもだらしない彼氏を起こす時間になってから、日向はきっとインターホンを押したのだろう。そうして開いたドアに対して『おはようございます』と、控えめに挨拶をするのだ。それから『お邪魔します』と遠慮がちに小声で言いながら家に入ってきて、そして『いつもごめんなさいね』とか、大体母さんに申し訳なさそうに言われながら、トントンと音を立てて階段を上がっていくのだ。紺色の靴下に、スリッパをはいて。
「本当にもう、だめな彼氏でごめんね」
「だめだなんて、そんなことないよ。誰だって、お寝坊さんな時はあるよ」
「ひなちゃんもあるの?」
「勿論あるよ~」
「想像つかない」
「普通にあるよ~」
日向も純也と同じように読書好きなので、ずっと楽しみにしていた作家さんの新刊とかが出たら、夢中で読みふけってしまうこともあるそうな。
それで一気に読み終えて、気が付いたときには時計の針が二時だの三時だのを差していたりして、夜更かししちゃった~と焦るらしい。そんな様子もきっと可愛いんだろうなと純也は思う。
「そーいうもんですか」
純也は鞄を持ち、玄関へと向かう。いろいろとあったが、やっとのことで出発だ。
「そういうものなのです」
日向も言いながら、純也に続いて進んでいく。これにてようやく慌ただしい朝の一コマは終わりを告げ、登校という次なるフェーズに移行していくのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
と、まあ純也にとっての朝というのはいつもこんな感じ。それでも純也は時折、いたずらをしかけるかのように、彼女を脅かしてみたくなってみるのだった。
流石に日向と同じように、寝室まで入っていくことはなかったけれども『どうしてこんなに早いの!?』とか、意味も無く彼女をびっくりさせてみたくなることもあるのだ。
そんなわけで、今日は珍しく彼が先行するというパターンだったのだ。 そして改めて、桜美家の玄関に設置されているベルを鳴らした。
程なくしてドアが開き、一人の女の子が出て来たのだった。長い黒髪と、真面目そうな黒縁の眼鏡が印象的な女の子。ひなちゃんこと、日向が。
しっかり者の彼女はいつでも出かけられるようにと、時間に余裕を持って準備を整えていたようで、純也が狙っていた驚かせるという目論見はどうやら完全に失敗だったようだ。
「ひなちゃんおはよ」
「純ちゃんおはよう」
純也ににこりと笑いかける日向。おはようの挨拶は、いつも可愛い笑顔でしてくれる。彼女はとても真面目だけれども、決してそれを人に押しつけたりすることのない、とても大らかな性格をしていた。
それゆえに人徳があって、誰からも好かれ、慕われていた。日向のことを『嫌い!』と公言する人を、純也は見た事がなかった。
「行こ」
「うん」
純也は、何気ない日常に飽き飽きしているかと言えば、そうでもないと断言できる。それはそうだろう。なにせ、とびきり可愛くて大好きな女の子がすぐ側にいて、いつも自分に微笑んでくれるのだから。これ以上の幸せがあるだろうか。
純也も友人達からはしょっちゅう『このリア充野郎!』と言われるけれど、羨ましいか? ふふんっと、ドヤ顔を見せつけて笑い飛ばしてやるのが常だった。
彼女という輝かしくも暖かい存在が、日常に大いなる彩りを添えてくれるというのは間違いない。それも決して、切ない片思いなどではなくて、両思いという、好きな人が同じように自分のことを好きでいてくれるのだから、人生の彩りはよりいっそう華やかになるものだ。
純也は、実に恵まれた青春を謳歌させてもらっているんだなと、自覚をしていた。まったく贅沢な話だ。
「あ、純ちゃん」
「うん?」
「ちょっと待って。ネクタイ、曲がってるよ?」
「ありゃ?」
これはうっかりしていたと純也は呆けた顔。日向はくすっと笑ってから、純也が着ているブレザータイプの制服に手を伸ばし、ネクタイをまっすぐに整えなおしてくれた。その様は実に手慣れたものだ。
「ありがと」
「どういたしまして」
決して、イチャイチャしているという気は本人達にはないのだけれども、端から見ていればそんなことはないわけで。時々友人達から『お前らいい加減にしろ!』とか『この夫婦め!』とか、圧倒的な人徳の差というものによって、純也だけが怒られたりするのだった。
「そんなとこ、よく見てるなぁ」
「ふふ。女の子はおしゃれに厳しいんだよ」
えっへんと胸を張る日向。
「ふーん。そうかなぁ。……じゃあさ。ああいうのは、どうなの?」
人をあからさまに指でさすのは問題があるものなので、純也は日向に対して目線で示してみる。くいくい、と、人混みの中を。
「え? あ……あ、あはは。色んな好みの人がいるんだよ。多分」
流石の日向も返答にきつそうだ。
彼が目線で示した『ああいうの』とは、いわゆるガングロなヤマンバ風女子高生だった。それはかつて、九十年代に流行った女子高生特有のスタイルだが、今ではめっきり見られなくなったものだ。それがまだ、生き残っていたのだった。
「うお。すげえ。とっくに絶滅したかと思いきや、まだいるものなんだ。まさに平成の絶滅危惧種。天然記念物ものだ。保護対象だな」
「ぜ、絶滅だなんていったら失礼だよ」
「そうかなぁ」
日向には悪いけど、純也は失礼だとは思っていなかった。確かに色んな趣味の人がいるんだろうけど、それにしたって許容範囲というものがあるだろうに。いきすぎという感覚は、何事も体に毒だというものだ。
「でもさ。ひなちゃんってほんと、リボンとかキチッとしてるよね。……そういうところって、みんな結構ルーズにっていうか、だらしなくしてる人ばっかりだけど」
日向はブラウスのボタンを最上段まできっちり閉めている。だからか、首元はちょっと窮屈そう……いや、そうでもないかと純也は思う。
何しろ、純也に撮って自慢の彼女さんはとってもスレンダーな体型で、すらっとしているのだから。純也も時々『ひなちゃん。ちゃんとご飯食べてる?』とか心配して聞いたりしているのだった。日向が言うには『朝昼晩、ちゃんと食べているよ?』とのことだけども、おかわりはしていなさそうだ。
「私は、制服はきちんと着こなした方が可愛いんじゃないかなって思うんだ。それが堅苦しいって言う人もいるけどね」
日向は改めてリボンをきゅ、と持ち上げてみせて笑顔。
「同感同感。さっすが優等生」
日向の格好は、過度に短すぎず、かといって大げさなほど長すぎないスカート。それに加え、キチッとした首元のリボン。まさに、生活指導の教師から『模範的』と評されるような身のこなしだった。
「優等生じゃないよ。ただ、こういう格好が一番可愛いかなーって、そう思うからしているだけだよ」
謙遜しているけれど、優等生であることは間違いなしだった。純也は心底そう思う。
日向は、学年で常に上位に入るほど、成績も優秀なのだ。対照的に、テストでいつも平均点すれすれの純也は、テスト前に毎回日向のお世話になっているのだった。いつも助かっています。神様仏様ひなちゃん様と、純也は感謝してばかり。とにかく日向は成績の方もまた、優等生なのだった。
「さすが生徒会長」
「生徒会長じゃないってば」
日向は、クラスの委員ではあるものの生徒会長ではない。けれど、やってみたらとっても似合うはず。きっと似合うに違いない。純也はそんな気がするのだった。 試しに生徒会選挙に立候補してみたら、きっと勝てる。そんな気がする。……本人は多分、嫌がるだろうけれど。クラス委員くらいで勘弁してと、言われそうだ。
「いーや、だれがどう見ても生徒会長だ」
「どうしてそうなるの~?」
クスクスと、苦笑しながら純也に対して突っ込みを入れる日向。こういう困った表情とかが、純也は好きなのだ。だからいつも変な突っ込みを入れたり、お馬鹿なことを言っては困らせてしまうのだ。その様子がまさに、バカップルがじゃれ合ってるのだと、傍からは見られるのだ。
「それが真理というものなのです」
「なにそれ~。もう、何いってるのかな」
しょうがないなぁ、といった感じの日向。……ふと、何か思い出したみたいだ。
「そだ。純ちゃん。放課後、何か予定ある?」
「あるよ」
彼は即答する。そう。今日、彼にはとっても大事な予定があるのだ。絶対に外せない用事が。
「そうなんだ……。残念」
「どして?」
「駅の方にね。新しいケーキ屋さんができたから、一緒に行きたいなって思って。イートインもできるんだって。それで、紗理奈ちゃんと優ちゃんを誘ってみたら『行ってみたいけど、まずは彼氏さんを誘ってあげなよ』って言われて……。それで」
ああなるほど。さすがは年頃の女の子。甘いもの、美味しいもの、可愛いもの、キラキラするものに対するチェックは早いこと早いこと。友達も含めた情報ネットワークに抜かりなしといったところだろうか。
「あ、そういうことなら、予定変更。行こ行こ」
「え、でも。いいの?」
「問題ないない。午後の予定は、帰って寝るだけだから」
「純ちゃん……」
苦笑して、ちょっとだけ溜息をつく日向。……あれ。ちょっと、呆れられたかな? と、純也は思った。
「立派な予定でしょ?」
「そういうのは予定とは言わないよ」
純也のボケに、口元に手を当ててくすくすと笑う日向。ああもう、どうしてこの子は仕草も可愛いんでしょうかと、彼は内心のろけていた。
「午睡は立派な予定だよ。とっても気持ちよくて身体にも優しくて、多分ストレス解消になるんだよ。現に、僅か数分の午睡がもたらす集中力の持続効果は、科学的にも解明されていてだね……」
と、純也はうんちくを真面目にたれてみる。
「もぉ。何をいってるのかな。純ちゃんったら」
真面目っぽく言ったのがわざとらしかったようで、彼女に更に笑われてしまった。純也にとってはちょっと不覚。ギャグがスベった感じだから。スベるということは、芸人の沽券に関わる問題なのだから。
「まあ、それはさておき。ひなちゃんって、どんなケーキが好き?」
「一番好きなのはレアチーズケーキ、かな? でも、ケーキで嫌いなものなんてないよ。みんなおいしそうで、選ぶときにいつも迷っちゃうよ~」
日向は、店先で選ぶのに時間がかかったら申し訳ないから、迷ったときは大体定番のショートケーキとかシュークリームなんかに落ちついてしまうのだった。勿論それらは例外なくおいしい選択なわけで、でも、時々冒険もしてみたくなるのだ。
「ふーん。納豆味でも?」
「どんなケーキなのかなそれ~」
想像するだけでナンセンスだ。下手物もいいところ。一体誰が作るというのだろうか? そもそもそんなもの、実際にあるの? と、日向は思った。作ろうと思えば作れるなと純也が思ったけれど、多分止められることだろう。食べ物を粗末にしちゃダメだよと、窘められながら。
「純ちゃんはどんなケーキが好き?」
「僕は……なんだろ。そういえば考えたことないなぁ。ケーキかぁ」
二人はこのように、楽しくも取り留めの無い事を話しながら、学校への道を歩いていた。
そんなこんなで、後数分もすれば学校にたどり着くと、そんな時だった。二人のこれからを大いに揺るがすような異変が起きたのは。
「じゃあ、ショートケーキは好き?」
「勿論好きだよ。でも、一番というわけじゃないかなー」
日向の問いに答えながら、交差点に差し掛かる。
歩行者用の信号は今しがた青に変わったばかり。信号を一瞥した後、二人は揃って横断歩道を歩んでいく。
「じゃあ、モンブランとかはどう?」
「ああ、あの栗の乗っかったやつおいしいよね。でも、モンブランって形状が何だか麺みたいだよね~。僕、おそばとかラーメンとか大好きだから、一度あれを麺みたいにして食べてみたいな。ずるずるずるって感じにね」
「そういえばそうだね」
日向がうんうんと相槌を打っている瞬間だった。
いきなり耳に入ってくる強烈な音。
急ブレーキをかけ、ギャギャギャギャといったような、タイヤとアスファルトが激しく擦れるような、威圧的な音が響いた。二人にはそれは、どこか他人事のように感じられた。
「おおっと。……って!」
心の中で、何で!? と、思った。このタイミングでこっちに車が曲がってくるのは無理があるでしょっ? などと、純也は冷静に考えていた。本来ならば、そんな落ち着いている場合じゃないだろ! 逃げろ! と、そう思うべきなのに、突然のことで体が硬直化してまるで動かない。予想もできていなかったから、完全に無防備になっていた。
「っ!」
危ない! と、思った。決して事態を飲み込むのが遅かったわけじゃない。彼は危険を察知していながら、金縛りにあったかのように身動き一つ取れなかったのだった。
歩行者が横断歩道を渡っているのに、車側からは信号が赤に代わっているのに、それを完全に無視した車が強引に曲がってきたのだ。純也達から見て左側の方から減速もせずに。何故? どうしてこのタイミングで来たのか? 純也にはサッパリわからないことだらけだった。
(ぶつかる!)
「きゃっ! 純ちゃ……」
そんな風に日向が呼んだような、叫びかけたような、危機感に満ちた声が聞こえたような気がしたけれど、実のところ純也はあまりよく覚えていなかった。
ただバンッと、車の硬いフロントボディにぶつけられて、二人揃って軽々と吹き飛ばされてしまった。そんな気がした。
たった一つだけ。その日起こったことは、いつもとは違っていた。
非日常に置かれると、退屈だった日常がいかに貴重なものだったか気付かされるとはよく言うもの。純也も間もなく、そんな気持ちに打ちひしがれることになってしまう。
――それから、どれ程の時が過ぎたことだろうか?
やがて純也は目覚めようとしていた。ぼんやりとした意識はしばらくそのままだったが、目覚めには違いない。
後になってからわかった事だけど、この時純也は日向と同じように救急車に乗せられ、病院に運ばれたばかりだったらしい。
「う。痛っ……」
意識を取り戻した純也は、最初にそう思った。どうやら足を軽く捻ったようで、それに加えてちょっとばかり体をアスファルト塗装された道路に打ち付けたようだ。痛みを感じて額に手を当てると、包帯が巻かれていることがわかった。
これもまた、後になってわかったことだけど。医師の説明を聞く限り、彼は軽い脳震盪を起こしていたとのことだった。
定期的な精密検査は必要だけども、外傷はそれほど見受けられないようで、これはまさに不幸中の幸い、軽傷で済んで良かったというべきなのだろうか。 自分に関しては、だが。
純也は覚醒し、時計があったので見てみると、昼過ぎくらいになっているようだった。どうやら純也は、そんなに長い時間気を失っていたわけではないようだ。そして、聞いた。
「あの。ひなちゃんは。……ああ、えっと。僕と一緒に歩いていた髪の長い女の子は、どうなったんですか?」
まくし立てる訳でも、怒鳴ったわけでもないけれど、何故だか側にいた女性の看護師に『落ちついて』と言われた。
もしかすると純也の表情は、パニック状態にでも陥りそうだったのかもしれない。看護師さんの口からはただ一言。まだ詳しいことは何も分かっていないのだと、そう言われたのだった。
「そうですか」
としか、言葉が出て来なかった。ふざけんな。これが落ち着いてなんていられるかよと、そんなクレーマーじみた理不尽な文句の一言すら、出てきやしない。ただひたすら、日向のことが気になる。……気になるけれど、気にしたところで、喚いてみたところで何かが変わるわけでもない。どうにもならない。ただ、祈るしかできない。祈るって、何に対して? 神様か仏様? 普段ろくすっぽ信仰なんてしていないのに、こんな都合のいい時だけ頼るの? そんな皮肉が自分自身に向けられる。それでも、祈らずにはいられない。
きっと無事でいてくれるはずだ。根拠は何もないけれど、ただひたすら座して待ち、信じるしかなかった。無事でいてよと。お願いだから。無事でいくれないと、嫌だよ。思考が雲のようにぐるぐると回る。
どうしてこんなことになってしまったのだろう? と、純也は改めて思い知らされる。けれど、めそめそ泣いていたって仕方がない。ただ、日向の無事を祈るしかできない。純也はどうすることもできず、ただ呆然とし続けた。あまりの無力さに、惨めな気分に陥ってしまいそうになった。気分がものすごく落ち込んでいく。
純也も、常日頃からわかってはいた。人生において、悲劇なんてものは珍しくも何ともないものなのだ。路傍に転がっている小石のような、ありふれたものだ。街で何気なくすれ違う、一生において一度も関わることのない人達だって、誰かしら何かしら悲しい過去があったり、泣きたくなるような悲劇に見舞われたり、絶望に沈んだりしているものなのだ。突然二人を襲ったアクシデントも、いつもは見過ごしてしまうような、本来新聞の片隅にすら乗っていないような、珍しくも何ともない出来事なのだ。
生きていれば誰だって、そうなり得るものなのだ。だからこそ、後悔しないように生きなければいけないのだと、いつか誰かがそう教えてくれたはずだ。けれど、現実はそんなに単純なものじゃない……。心の準備なんて、できるはずがない。
(後悔しかないよ、僕は……)
不運。ハードラック。巡り合わせが悪い。ただ、それだけのことだった。
(こんなの嫌だ。絶対に受け入れられないよ……)
純也の頬を涙が一筋、こぼれて落ちた。女々しい! 男なら泣くんじゃない! だなんて、ちょっと前の時代なら言われただろうか? だけど、男だって不安なんだ。それについて、性別なんて関係ない。誰か、この不安を和らげてよと、純也は心の中で呟いた。
(ひなちゃん……。早く目を開けて。それで、僕に笑いかけてよ……)
声にならない叫びが、純也の心の中にひたすら響いていくのだった。
最初のコメントを投稿しよう!