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11.そんなこともあったねと、笑って思い出せるような日々
そういえば、そんなこともあったねと。いつか、そう言えるようになりたい。辛いことがあったりしたら、人はそう思うもの。
どんな時でもいずれは過ぎ去っていき……彼らにとって、笑顔で追憶に浸れるような時がようやく訪れたようだ。
日向と純也は思う。自分達は今、あの頃よく思い浮かべていた未来にいるのだろうと。
――それは、桜が舞い散る春先のこと。
「えっと。これで、いいの?」
華やかな衣装を着て、戸惑う日向と。
「そうそう。すっごくいいよ。上手だよ~。そのままポーズとって」
カメラ片手に指導する純也。
「う、うん」
「はい、じゃあ十秒間そのままでいてね。カウントいくよー」
「はい~」
腕を伸ばしたり、しゃがんでみたり。時には跳び跳ねてみたりと、これがなかなかに忙しい。コスプレって、思った以上のハードワークなんだと日向は思った。……それ以上に、楽しいけれど。
失われていた記憶が、思い起こされる。そうだ。これは、あれだ。小さい頃、親にせがんで七五三かなにかで貸衣装のドレスを着させてもらって、撮影スタジオで写真を撮ってもらったことを思い出した。
色とりどりのドレスは綺麗で可愛くて、鏡にうつる自分は普段とは見違えて見えた。自分が変わっていって、まるでお姫様になったような気分だった。
ああ、今やっているこれはその感覚に似ているのかもしれない。だから、楽しいのだと日向は悟った。今、自分は自分ではなくて、この衣装を着たキャラクターそのものなのだ。
「ひなちゃん~。今度はこっちに目線くださ~い」
純也の友人であり、クラスメイトの竹本くんが日向に優しく呼び掛ける。みんなが注目してくれている。主役は誰でもなく、自分なんだ。日向はそう思った。
「え? あ、はい~」
ここは、とある撮影スタジオ。
紫と白、グレーと青を基調とした衣装を身に纏い、高めのヒールブーツ。リボンをあしらい、レースで飾られたドレスのような、ファンタジーものにありがちなローブのような、そんな華やかな格好を日向はしていた。
撮影を始める前。日向は梅沢くんの手によって念入りにメイクをしてもらって、ウイッグをつけて、更衣室から出てきたものだ。
それから日向は様々なポーズをとり、モデルとなってパシャパシャと写真を撮られているのだった。
日向は今、以前純也が言っていたアニメキャラクターのコスプレ撮影会をしているのだ。
ハピネスキャッチ・プリティーギアという名の、少女が何だか少しばかりメカメカしくも可愛らしいコスチュームに身を包んで、日夜悪と戦うという内容のアニメなのだった。
ある時のことだ。純也の口から、ついに日向がコスプレ衣装を着てくれることになったという、実に喜ばしい事実を知った三馬鹿達は、純也を交えていろいろと協議を重ねた結果、写真撮影のためにわざわざ撮影スタジオを数時間ばかり借りきることにしたのだった。
アニメ同好会の三人である松田くん、竹本くん、梅沢くんと、そして日向の彼氏である純也がそれぞれお金を出し合って、この個人コスプレ撮影会を実現させたのだ! 行動力とはまさに、好奇心を満たす為に発揮されるものなのだ。
そして今日こそが、待ちに待った決行の日なのだった。
腕がなる。カメラの記憶媒体を埋め尽くさんばかりに写真を撮りまくってやるぜと、四人は決意した。……勿論、モデルの日向が疲れ果ててしまったり、もう嫌だなんて言うようなことにならないように、注意深く配慮しながらだが。
「ひなちゃん。今度はこれ持って。これはムーンメイスっていう小道具ね」
「う、うん」
何だかカラフルで可愛いステッキだなと、日向は思った。今度はそれを使ってまた、ポーズをとるのだ。
「しっかしまあ。ここまでやるとはねえ」
一緒にお呼ばれした紗理奈が感心したのか、あるいはちょっと呆れてるのか、そんな表情で、腕を組ながら立っている。
「すごいよね。みんな、本気で楽しんでる」
紗理奈と同じく、日向にお願いされてやってきた優子も何だか楽しそう。
「部室でやるとね。いろいろと面倒なことが起きそうだからさ。やれうるさいだとか、学校で遊んでいるんじゃないとか、なに馬鹿騒ぎしてるんだお前らはとか、そんな感じにね。まぁ、あの部屋は広くもないし、そんな鬱陶しい揉め事もごめんこうむるってわけでね」
と、純也が言う。
誰からも理解されるだなんてことは、最初からあんまり思っていなかったようだ。
「そういうこと。大体、自分達のお金でやるんだから、誰にも文句は言わせないよ」
松田くんの一言に、男達は揃ってうんうんと頷いた。今でこそ、一般のメディアも取り上げることが増えて、世間的にも理解されてきたものだが。サブカルというものに偏見を持っている者は、どこにでもいるものなのだ。
「僕達は真剣にやっているんだよ。こう見えてもね」
竹本君が、やたら高そうなごっついカメラを構えながら、爽やかに言いきった。
「それにしてもひなちゃん、可愛いなあ」
表情が緩みきっている純也。それは彼だけでなく、アニメ同好会の三人も同じだ。衣装を着た日向が見せる、神秘的かつキュートさがミックスされたイメージに、惚れ惚れしているのだ。
「ほんとだね。って、なーに、でれでれしてんのよ。この役得彼氏め!」
紗理奈も何だか楽しそうだ。
日向はコスプレの撮影会をするにあたって、いくつか条件をつけた。
流石に不特定多数の、大勢の人に見られるのは恥ずかしいから、撮影会は知っている人だけにしてほしいとのことだった。そんな訳なので、日向と純也、紗理奈と優子にクラスの三馬鹿という定番というのか、お決まりの面々が、この場に集ったのだった。
そして日向は言った。撮った写真は、絶対に他の人に見せちゃだめだよ? と。男達四人はみんなうんうんと頷き、肝に銘じますと、約束を遵守することを誓ったのだった。アニメ同好会のプライドにかけて、絶対に流出などさせません! 個人情報はしっかりと管理します! と、そう言った。
「ねえひなちゃん。ちょっと、台詞言ってみてくれないかな?」
「え?」
純也はおもむろに、持ってきていた小型のタブレット型パソコンを日向に見せる。そこには日向が着ている衣装のキャラクターが、勇ましく戦っている姿が映し出されていた。
『私は負けない!』
その名はギアムーンライツ。美しき孤高の戦士は強大な敵に向かって怯むことなく、叫んだ。
『心の大木を切り倒させはしないわっ!』
そして、高らかに技を披露していくのだ。
『はああああああああああああっ!』
彼女の手から放たれる眩いばかりの光。相手を浄化せんとする聖なる一撃とともに、思いっきり体当たりを加える。なかなかの肉弾戦派だ。
「こんな感じ」
「う、うん。わかった。やってみるね。こんな風に、やってみればいいんだね? うまくできなくても、笑わないでよ?」
「うん。お願い。笑ったりなんてしないよ」
「いくよ!」
日向はすうっと息を吸い込み、そして凛々しい表情になってから、腕を突き出した。
撮影を始めた頃は恥ずかしがっていたものの、純也達の導きも有り、段々と慣れてきたのか吹っ切れたのか、今ではなかなか様になっていた。
上手くできなくても構わない。何が失敗かなんて、誰が決めるわけでもない。自由に、楽しくやって欲しいんだと。純也を始めとする面々は、日向に優しく言った。
「聖なる斬激! ギアムーンライツ・リアクティブアーマー! はっ!」
ばっちり決まった! ばしゃばしゃとシャッターを切る音がいくつも聞こえる。決定的な瞬間は、確かに捕らえられていたのだ。
「いいよ~!」
「格好いいよ~!」
「ああ、最高。遂に、俺がこしらえた衣装を着てくれる子が現れるとは。その上、ポーズまで取ってくれて台詞まで……。これはもう、純也に感謝してもしきれないな」
アニメ同好会のみんなが、松田くんが満足げに頷いている。まさに、感無量といったところか。
「うんうん。最高だよね。……さて、紗理奈と優子ちゃんにはそろそろ言っておかなければいけないことがあるんだなこれが」
「うん?」
「どうしたの?」
「ほい。これどーぞ」
純也は唐突に、二人にあるものをみせる。本日一番のサプライズアイテムを。
「あ……あたしらにも着ろと?」
紗理奈は瞬時に察し。
「え? え? 何? どういうこと?」
優子はきょとんとしていた。
用意された衣装は、日向のものだけではなかったのだった。黄色いのと、ピンクの衣装が、ちょっと呆然としている二人の女の子にそれぞれ手渡される。
「いや、ちょっと待って。待ってってば。マジかいな」
紗理奈がそう言うと。
「おう。待つぞ。いくらでも待っちゃうぞ。なにせ時間はまだまだたっぷりとあるからな」
売り言葉に買い言葉な純也。せわしくするのが嫌だから、たっぷりと時間を確保しておいたのだ。
「わ、私はその……地味顔だから、こんな華やかな衣装は似合わないんじゃないかな?」
優子がそう言うけれど、純也にとってはそれも想定の範囲内。アニメ同好会のみんなにとってもそのようだ。そう言った返答があることは、最初からわかっていた。
「大丈夫大丈夫。何せこの衣装を着ている子はね。作中でもすっごく地味で内向的な子でさ。ひょんなことからプリギアになったことをきっかけに、今までの自分を変えようと決意して、一生懸命に頑張っているんだなこれが。まさに、優ちゃんのイメージにもぴったりなんよ」
「そ、そうなんだ」
困ったなぁと戸惑うお友達二人に、日向は言った。決め手となる一言を。
「紗理奈ちゃんも優ちゃんも、一緒に着てみようよ!」
そのお誘いは断れなかった。心から楽しんでいるのがわかるのだ。日向の真っ直ぐな、純粋な眼差しを向けられたから。
「う……。ひなちゃん……」
「あはは。ひなちゃんに誘われたら、断れないなぁ」
「私もね。最初はちょっと恥ずかしかったけど、着てみるとすっごく楽しいよ? 鏡見てて、自分の姿にちょっとうっとりしちゃった。可愛いな~って」
日向は本当に楽しそうだ。無邪気な、好奇心に満ちあふれた子供のような笑顔。一緒に遊ぼうよと、小さな子供がお願いをしているかのよう。
「あああ、わかった! わかったよ! 着るよ! こうなりゃ一丁やったる! ここで断ると女がすたる! ……ような気がする!」
「おおし! それでこそ紗理奈だ!」
うまく乗せられてしまった紗理奈と。
「じゃあ、私も着てみるね。……ご指導、宜しくお願いしま~す」
しょうがないなあと笑いながら付き合ってくれる優子。
「優ちゃんもありがと!」
「ほいきた!」
「指導はお任せあれ!」
アニメ同好会の三人も、ノリがいい。
純也は、日向にコスプレ衣装を着てとお願いしたときに、密約というのか、もう一つ我が侭を聞いてもらっていたのだった。
実はさ、と日向に切り出したものだ。松っちゃんが作った衣装は一着だけじゃなくてね、紗理奈と優ちゃんの分もあるんだなこれが。けど、僕がお願いしても多分、聞いてもらえなさそうなんだよね。と。
そこで。彼は考えた。
でもでも、日向が笑顔で『楽しいからみんなで一緒にやろうよ~』って言ってくれたら、その限りではなさそうだと思ったんだ。と。
日向はそれを聞いて。うん。いいよと答えてくれた。こうして純也の作戦は完全に成功したのだった。計画通りだと、純也はくっくっくっと不敵に笑ったものだ。
純也から成果の報告を受けたとき、アニ研の三人は声を揃えて言ったものだ。よくやったぜ純也! 素晴らしい! 最高だぜ! と。そして今日、彼らはスタジオに着くや否や、叫んだのだ。パーティーの時間だ! ヒャッハー! と。
さてさて、紗理奈と優子の二人は早速とばかりに更衣室に連れて行かれ、衣装を着たりウィッグをつけたりした後で、日向と同じようにきちんとメイクまでしてもらっているのだった……。
「むおお! すげえわ! ……梅ちゃん。あんた、冗談抜きで真面目にプロのメイクアップアーティスト目指してんの?」
鏡を見つめて唸る紗理奈。自分の顔が、自分ではないようにメイクされていく。一体全体どうされるのか不安だったけれど、今では完全に、梅沢くんの腕を信じ切っていた。
「うん。冗談抜きで本気だよー。マジだよ。専門学校行こうかなって思ってる」
「おおぉぃ。まじかい。初耳だわそれは」
「はい、動かないでね~。もう少しで終わるからね」
紗理奈と優子はとても驚いていた。普段、三馬鹿とか言われているのに、その手際がものすごく良かったのだから。
「まっちゃんはまっちゃんで、アパレル方面進むとか言ってるし……。竹坊は、プロのカメラマン目指すんだってさ」
「すごい技術だね~」
人は見かけによらない。遊びだって本気だ。子供騙しでは、子供を騙すことはできないとは誰かが言っていたけれども、ここにいるみんなはまさにそういう真剣なオーラを発していた。
そして程なくして、衣装を着た三人が集う。紗理奈が疑問を口にした。
「んで」
「うん?」
「あたしのこれ。ええっと、シャイニー? と」
黄色い衣装に身に纏い、ウィッグをつけている紗理奈と。
「私の衣装は、ブローチ、だっけ?」
ピンク色の衣装の優子。
「うん。そう。その名前で正しい。ギアシャイニーと、ギアブローチ」
純也が頷き、日向がはしゃぐ。自分が着ている衣装とはまた違ったデザインとカラーで、可愛らしいから。
「二人とも、よく似合ってるよ~。すっごく可愛い~」
「本当はもう一人ばかりキャラがいるんだけど、まぁ、贅沢は言うまい。最初はひなちゃんだけだと思っていたからさ」
松田くんがちょっと残念そうに言った。
「そうなのか……」
まだ他にもキャラクターがいるんかいと、紗理奈は唸った。
ちなみに日向はこの日のために、純也から提供された映像をひたすら見てきたのだった。予習は大事だよということで、生真面目な日向の方から純也に、元ネタを見せてよと頼んできたのだ。無論、純也は快くその要請を受け入れていた。
「全部って……」
「確か、全五十話くらいだったっけ? 長かったけど、全部みたよ~」
「うわぁ。大変だったねひなちゃん……。お疲れ様でした」
紗理奈が、あっけらかんと言う日向の労を労った。それはさぞかし疲れたことだろう。彼氏の趣味にとことん付き合わされちゃってまあ、律儀なことだと。
「すごく面白かったよ? 見ていくうちに段々と楽しくなっちゃって、全然苦痛じゃなかった。……でも。私が着ているこの服の子は、なかなか本格的に出てこなくて、変身もしなかったんだけどね。いろんな事情があってね。悲しい事もあったりして、私ちょっぴり、泣いちゃった」
「そーですか……」
純粋な子だなぁと、紗理奈は思った。
「さぁ撮るよ! みんな準備はいいかい!」
周りから、カメラが構えられる。
「お、おおおっ! どーんとこいやああっ! こうなりゃ、とことんやったらあ!」
遂に吹っ切れた紗理奈だった。
「写真、絶対流出させんじゃねーぞ!」
やけっぱちになった紗理奈の叫びに、男達は皆、わーっとるわいと返す。
「優ちゃんポーズ決めて!」
「う、う、うんっ! えーーーいっ!」
「表情硬いよ。自然でいいよ自然で!」
「はーーーい!」
「紗理奈ー! 目線!」
「おおっしゃ!」
「ひなちゃん、背伸びして!」
「は~い!」
「優ちゃん笑って!」
「わかりました~」
ああ、楽しい。実に楽しくて、めちゃくちゃ馬鹿っ騒ぎな時間が続いていく。
結局、三人とも沢山写真を撮られてポーズを決めて、モデル気分な一日を満喫したのだった。
この日のことはみんな、ずっと忘れる事はなかった。一生の思い出とは、まさにこういう日のことを言うのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
――大騒ぎだったコスプレ撮影会が終わってから数日後の事だった。
純也と日向。二人にとって、ちょっとした追憶の時がまた、訪れる。
「純ちゃん? 何見てるの?」
「あ、ああ。うん。ちょっとね」
放課後の学校。一階の廊下にある掲示板。そこには校内新聞が張り出されていた。バスケ部が県大会で優勝を決めたとかで、大活躍してるとのことが記されていた。
(あ……)
その中には、日向も知っている子の名前が、写真と共に出ていたのだった。
ああなるほど。それで純也は、普段はまるで見ないような掲示に興味を示していたのかと、日向は察した。
(愛香ちゃん。頑張ってるんだね)
あの時。純也に告白をしていた女の子がユニホームを着て汗だくになって、爽やかな笑顔を見せていた。どうやら彼女は、バスケ部の中心選手として大活躍しているらしい。本当に、自分とは全然違う子だなと日向は思う。
もしもあの時、純也が愛香ちゃんの思いを受け入れていたら……。どうなっていたんだろう? 一瞬そう考えかけて、日向はすぐにやめた。
「純ちゃん。この緑川さんって子。格好いいよね」
「え? うん。そうだね~」
これはちょっと、意地悪な質問だっただろうか? 日向はそう思った。心なしか純也はギクッとしたような気がした。そのせいか、言葉もどことなく棒読みだ。何故、そんなことを聞いてしまったのだろうか?
(だって純ちゃん。……さっきから愛香ちゃんの写真を食い入るように見つめているんだもん。私、妬いちゃってるのかな?)
きっとそういう理由なのだろうと、日向は思った。
「私、運動苦手だから。スポーツやってる子って、格好いいなって思うよ」
「そ、そうだね~」
純也は極めて落ち着いて、冷静に答えた。棒読み具合は相変わらずだと、日向は思った。
(あ、あ、あはははは……。何だかこう、すごく、罪悪感を感じるよ……)
実のところ純也は、背筋に冷たい汗を感じていたのだった。
以前この子から告白されて、それを断ったんだとは言えない。間違いなく、純也の彼女は日向なのだから。そんなことをネタばらししたら、何と言われることだろうか? へーえ。私以外の子から告白されて、うきうきしていたんだ。そーなんだあ。とか。にこやかな笑顔で聞かれたりするのか? 怖すぎる……。
純也は今も、告白の一部始終を日向に全て見られていたことなど、知る由も無いのだった。
(ああ、だめだ)
日向は自分に対して苛立ちを覚えた。一体何を嫉妬しているのだろう? 本来、自分は逆に、相手から嫉妬される側だろうに。あの時、純也ははっきりと愛香の告白を断ったのだ。やましい気持ちなんて何もない。それなのに何を自分はネチネチとしたことを聞いているのだろうかと、日向は思う。
(私、嫌な子だよね。ごめんね純ちゃん。もう、意地悪はしないよ)
日向は密かに反省しながら、純也の腕を握る。もう、この話はやめようと。
「行こ」
「うん」
今日はこれから二人で、ケーキ屋さんに行くのだ。事故に遭う直前に、行こうと約束をしていたお店に。
「どれにしようかなー」
「モンブランだな。うん」
何でだろう。食べたいケーキを相談しながら、一緒に歩いているだけで楽しい。るんるん気分で道を歩く二人の足取りは、軽い。
「あは。好きだって言っていたよね、純ちゃん」
あ。そのこと、思い出してくれたんだと純也は思った。事故に遭う直前に話していた内容だ。
「僕は初志を貫徹するよ」
「そっか」
「あ。もちろん一口あげるよ?」
「わ~い。ありがと」
彼がそうしてくれるのなら私は、そうだ……。あれをやってみようと日向は思う。スプーンですくってから好きな人の口元に差し出して『はい。あ~んして』とか、言ってみせるのだ。
ものすごく恥ずかしいかもしれないけれど、でも、いいや。今までの自分はきっと、そんな感じでは無かった。だから、楽しみで仕方がない。
そもそも。ネットで調べた限り、これから行くケーキ屋さんはイートインもできて、カップルなんかに結構な人気があるみたいなのだから。日向が純也とちょっとやそっといちゃいちゃした程度で、別段目立ったりはしない。それが普通の空間なんだ。だから、大丈夫。遠慮なくいちゃいちゃしちゃおうと、日向は思った。
「純ちゃん。あ~ん、して?」
「あ~ん」
そして実際、彼はパクッと食べてくれた。嬉しくてたまらない。
「あ、そうだ。純ちゃんあのね」
「何でしょうか?」
「ジュース。一緒に飲みたいな」
「ほいほい。……って、こういうのですか!?」
「嫌?」
「はっはっは。嫌じゃないよ。ないですとも! 一緒に飲もうね。二本のストローで!」
やっぱり日向は変わったなぁと、純也は思った。以前はこんな、積極的な子じゃなかったから。好きだよという感情を、表に出してくるようなことはそんなにはなかったのだから。
「えへへ。ちゅ~」
ストローをくわえて吸い込む日向。美人さんだけど、子供のように可愛い。
素敵な彼女がものすごく大胆になって、ドキドキが止まらない。純也も日向と同じように、好きな人をもっともっと好きになっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
追憶と共に、時は過ぎる。
ジメジメとした梅雨を超えて、やがて夏が訪れる。憂鬱だったテスト期間を過ぎ、受験勉強もそこそこに、二人は気晴らしにお出かけをしていたのだった。
都市部の方から郊外へ。電車に揺られて三十分足らず。そこからバスで更に三十分といったところ。今日、日向は純也と一緒に海辺に来ていた。
「海だ~」
「やっと着いた~」
自分達の地元の、コンクリートでガッチガチに固められた海とはまるで違う。砂浜の柔らかさとちょっと強い風、絶え間なく押し寄せては引いていく波。日向は麦わら帽子が吹き飛ばないようにと、手で押さえていた。
「純ちゃん? どうしたの?」
「ううん。何でも無いよ。ただ、感無量だなと幸せを噛みしめているだけ」
「そうなの?」
「うん。……ひなちゃんが可愛すぎてさ」
「私?」
日向の姿は、白いワンピースに麦わら帽子という爽やかなもの。それもこれも全て純也たってのお願いなわけで、日向は完全に受け入れてくれたのだった。そういう姿でデートしたいなという、お願いを。
「白いワンピースに麦わら帽子の女の子は、夏の代名詞なのさ……」
「そうなんだ?」
「それをね。ひなちゃんみたいな、とびっきりの可愛い子に着てもらえるなんて、僕はなんて幸せ者なんだろうか……。って、おわっ!」
日向はふふ、と微笑みながら、純也の腕に抱きついていた。
「純ちゃん。お散歩しよ?」
「うんっ」
ひたすら青い空と入道雲。押しては引いてを繰り返している海。夏が来たのだと実感する。純也は日向に腕を掴まれながら、浜辺を歩んで行く。
「う~ん。暑いけど、風が気持ちいいよ」
「そうだね」
「ねえ純ちゃん。私。花火、したいな」
「あ、いいね。今度しようよ」
「お祭りにも行きたいな」
「それも、行こうね」
近所のお祭りといえば、紗理奈が手伝っている焼き鳥屋さんも毎年頑張っていたりする。純也は思い出していた。あいつ、気合を入れて焼いていたっけなぁ、と。
「浴衣、着ちゃうよ」
「楽しみだよ」
楽しいことがいっぱい、次から次へと思い浮かんでいく。
◆ ◆ ◆ ◆
それからまた、時間が過ぎる。
地元の街。純也達が住んでいるのは、首都圏の郊外に位置する、とある地方都市。
街の中心部からちょっとばかり離れれば、緑豊かな森やのどかな田園地帯が広がるような、そんなところ。
真夏の、じっとりと汗ばんでいくような感覚はもはや過去の話。爽やかな風と高い空。秋が来たことを実感するような、今日この頃。
「ひなちゃん。お待たせ。待った?」
「ううん。私も今来たところだよ」
休日。家がお隣同士なのに、あえてそんなふうに待ち合わせをしてみたカップルがいた。言うまでもなく、日向と純也の二人だ。
「純ちゃん。行こ」
「うん」
いつもとても近くにいるから、あえて待ち合わせをしてみたいなと、彼女は言った。それくらい、お安いご用だよと純也は笑って受け入れてくれた。
「待ち合わせって、何だか不思議な気持ちだね」
「そうだね」
これから二人で楽しくデート。さて、どこに行こうかな? 適当に、街を散策するも良し。ファーストフード店や喫茶店に入って、適当に飲み物でも頼んで、ひたすらお話をするのも良し。全ては自由だ。
「お散歩しよ?」
「うん」
彼女からの提案は、とってものんびりした、リラックスできるものだった。
そうして二人は、緑豊かな公園を散策し始める。
「ねえ純ちゃん。調子はどう?」
「ぼちぼちでんなあ。ひなちゃんが家庭教師してくれてるから、まあまあ、順調だよ」
それは受験勉強の話。日向は眼鏡をかけた委員長スタイルになって、優しく勉強を教えてくれるのだった。その姿で指導されると、勉強がはかどることはかどること。純也は感動したものだ。
結局純也は、日向と同じ大学への進学を目指すことにしたのだった。……紗理奈も結局、それに付き合うことになった。腐れ縁はまだまだ、続く事になりそうだ。
「そういえば。あれから、一年がたつね」
日向が思い出したように言う。事故に遭って、記憶の一部を失って、大騒ぎだった。あの時からそんなに時間がたったのかと思う。
「そうだね」
日向は相変わらず、時折通院して検査をしているけれど、今の所異常は見当たらないとのことだった。
「ひなちゃんはさ。少し、思い出せたのかな?」
「うん。純ちゃんのお陰で。いっぱいいろんな事を思い出してきたよ。もう大丈夫」
二人は手を繋いで、だだっ広い芝生の広場を歩んで行く。
「純ちゃんが彼氏さんで、本当によかったよ」
あの時。事故に遭って、目をさました時のことを思い出していた。
「私。何が何だかわからなくなっちゃって。混乱してた」
取り乱したりはしなかったけれど、どうすればいいのかわからなくなっていたのは確かだった。
「そうだよね。そうなるよね」
「でもね。そんな時に純ちゃんが優しくしてくれたから。……私、この人が彼氏さんだったらいいのになって、最初にそう思ったんだよ。あは。何回も言ってるよね、この話」
「うん」
何度言われても構わない。何回聞いても、嬉しいことなのだから。
「それから、本当に私の彼氏さんだったんだって聞いて……嬉しいなって、心の底から思ったんだ」
「そっか」
もう、記憶を失ったことの不安はどこにもなかった。
晴れ渡った秋空のように、一点の曇りもなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
あるとき。日向はまた、夢を見た。
「う~ん。むにゃむにゃ」
「眠たそうだね」
声が聞こえる。よく知っている声。恐らく、もう一人の自分だ。本来ならば、何で自分がもう一人いるのかと疑問に思うべきなのだけど、夢の中なのでどうでもいいようだった。
「眠いよ。眠たそうじゃなくて、すごく眠いよ」
いつか見たような、忘れていたような夢。
「だからお願い。起こさないで~」
「ごめんね。でも、聞いて欲しいことがあったから」
「悪夢?」
ああ、こういう時に見る夢はきっと悪夢なんだよね。浅い眠りで、自分のネガティブな感情をぶつけられるような、そんな不条理な夢に違いないんだと日向は思った。
「そんなこと、ないと思うんだけどな」
もう一人の自分が否定する。
「じゃあいい夢かな?」
「そうかもしれないね」
「あ、わかった。……これから純ちゃんと、いけないことしちゃう夢とか?」
「どうしてそうなるの?」
「男の人って、夢の中で女の人とその……えっとね」
想像すると、頬が熱くなっていく。男の人も、いろいろあるんだということを聞いたことがあるから。
「ああもう、いいから。その話から離れようね」
「はーい」
日向も、流石にそのお話はちょっとないかなと思ったので、素直に返事をした。
「ねえ。今、幸せ?」
「うん。すっごく幸せだよ」
「よかったね」
もう一人の自分が微笑んだ。
「実はそれが全て夢だったらどうする? とか、聞いちゃったりするのかな?」
「だからそんなこと聞かないって。どうしても、悪夢にしたがるのね」
「だって。こういう時に見る夢はきっと、ネガティブで鬱になっちゃうようなひどい内容なんだよきっと。うなされちゃうんだよ、私」
「そんなことないってば」
「じゃあ、なんなの?」
「うーん。一言で言うと。お別れ?」
「どういうこと?」
「あなたは純ちゃんたちのおかげで殆どの記憶を取り戻してきて……。だから、私と同じになったの」
「同じになったら、どうなるの?」
「私は私。つまり、あなたに戻るの」
「消えてなくなっちゃうの?」
「ううん。そうじゃないよ。いつでも一緒になれるってこと。元に戻るってこと」
「そうなんだ」
「だから、最後にね。おめでとうって、そう言いにきたんだよ。……もう。最初から、悪い夢だって決めつけるんだから。どうしてそう、ひねくれているのかな」
「だって~」
「心配しなくても大丈夫だよ。あなたは……私は一人じゃないから」
「うん。わかってる」
「じゃあね。バイバイ。純ちゃんと、幸せにね……」
「バイバ~イ」
それきり、夢の中で自分に会うことはなくなった。
もっとも、日向は覚えていないから、何だか変な夢を見たなーと思うくらいだったのだけど。
◆ ◆ ◆ ◆
やがてまた、冬が訪れていく。季節が過ぎるのはいつだって駆け足だ。
「純ちゃん。一緒に帰ろ」
「うん」
大通りの中心に、牽引型のモノレールが走っているのが見える。二人は、すっかり寒くなった街を歩んで行く。
日が短くなっていき、あっという間に夜が訪れるように感じる。
「もうすぐ、卒業だね」
純也がしみじみと言う。これからどうなるんだろうという期待と、少しの寂しさと切なさが混ざり合う。期待感よりも、不安だらけの日々が続いている。果たして自分は、世の中で真っ当にやっていけるのだろうか? というような、いつまでも消えない不安だ。
「そうだねー」
年が明けたら受験のシーズンが訪れることだろう。あっという間の出来事だ。ここまでのところ、日向と共に準備はしっかりと整えてきてはいるけれど。
「ひなちゃんは、記憶の方は大丈夫?」
「うん。もう、大丈夫のような気がするよ」
「そっか。よかった」
「ねえ。純ちゃん」
日向はまた、追憶に浸る。
「あれから、一年だね」
「……うん」
思い出すとちょっと照れくさくなる。日向からお願いされて、二度目の告白をしたときからちょうど一年くらいだ。
「あの時ね。本当に、嬉しかったんだ」
日向は空を見上げる。夕焼け色と群青色に交じった空に、星々の輝きが見える。純也の部屋で、好きだと言ってもらえたことを思い出す。
「純ちゃん。しつこいなって思われるかもしれないけど……。また、お願いを聞いてもらえないかな? ……ウザい彼女だなーって、思うかもしれないけど」
「そんなこと、絶対思わないよ。どんなお願い?」
「また、あの時と同じように。……告白、してほしいなって」
自分を救ってくれた、あの時の言葉をもう一度聞きたい。日向はそう思った。
未来のために追憶に浸った、あの時の言葉をもう一度。
「いいよ」
純也は頷いた。
――そしてそれから、数日後のこと。
純也の部屋で、二人きり。あの時とまるで同じ。
好きです。お付き合いをしてくださいと、シンプルな告白が純也の口からなされていた。
何回されたって、ドキドキした気持ちが込み上げてくる。
日向の答えは勿論いいよ、だ。その瞬間、幸せな気持ちが全身を包んでいく。今の気持ちを言葉にするならば……。
「私。純ちゃんの事、もっともっと、好きになっちゃった」
と、日向はそう言った。それ以上に、言いようがないのだ。
楽しい追憶に浸り続ける二人を、星々の輝きが包み込んでいく。
いつまでも、ずっと。
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