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2.誰?
「誰?」
純也にとって、やっとのことで再会を果たした彼女からの第一声は、衝撃でもなんでもない。……そのはずだった。
事前にわかっていたことだ。それなのに、純也にとってその一言は鋭い矢がぶすりと突き刺さるかのように、辛かった。どんなに強がってみせてみても、結局無理だった。
それはまるで、自分がお付き合いをしている彼女さん……桜美日向ちゃんにとてもよく似た、面影も仕草も声すらもうり二つな別人の子に話しかけられたような、そんな気がしてしまった。
純也の登場に戸惑いながら、どこか上の空でぽうっとしたような、ぼんやりした表情で、日向は純也に対してそう言ったのだった。
(あ、あ……)
日向自身、そう言いたかったわけではなかった。言葉が出て来ず、そう言うしかなかったのだ。
無論、純也も覚悟はしていた。病院の関係者から、事前に細かい話は聞いていたのだから。
ああ畜生。絶対に、意地でもショックを受けたりなんてしないぞと、純也はそう思っていたのだけども。頭ではわかっていても、実際に過酷な現実を目の当たりにしてしまうと、装甲が持たなかった。分厚かったはずの装甲は、実は紙でできたハリボテだったようだ。このようにして純也は、精神的に大きな衝撃を受けてしまうのだった。
シミュレーションなんてものは、いつだって完璧なんかじゃないのだ。
「誰……。誰、か……。誰って、僕だよ。純也だよ? 純ちゃんだよー? 忘れちゃった? だよね。うん。しょうがないよね。そうだよね」
「……」
焦燥感溢れる純也の、無理やりに作った笑顔と悲しげな瞳を見て、日向は何も答えられなかった。ああ、きっと自分が今し方発した一言で、この人を傷つけてしまったのだろうと、日向はそう思っていた。
改めて、忘れられてしまった悲しみが純也の心の底から込み上げてくる。だが、落ち込んでばかりもいられない。本当に辛いのは、目の前にいる彼女なのだから。
「ひなちゃん」
日向の体を包み込む白い包帯が、儚く見えてしまう。けれど、同時に彼女が無事でよかったという安堵の気持ちもまた、純也の胸に込み上げてくる。
やがて純也は感情を押さえ切れなくなって、思わず日向に抱き着いていた。怪我をしたところが痛くないようにと、加減して。ピタリとくっつく程度の優しいハグ。
「僕の事、忘れちゃったみたいだけど。でも、よかった……。ホントによかった。無事で……。死んじゃ嫌だよ……。ダメだよそんなの、寂しすぎるじゃない。もう二度と、お話したり一緒に学校に行ったり、デートしたりできなくなるかもしれないなんて思っちゃって……。辛かったよ。苦しかった……。不安だった。ごめん。……僕、今、ひなちゃんの気持ち、何も考えずにそんなこと言っちゃってる」
「……」
日向は思う。そうだ。この人はきっと、自分がいっぱいいろんなことを知っていたはずの人なんだ。けれど、今では見知らぬ人になってしまったんだ。それがものすごく悲しいんだ。突然抱きしめられて日向は戸惑ったけれど、でも、何故か抵抗する気にはならなくて、そのまま身を任せていた。
(何だろう? 優しいな。ぽかぽかする)
好きな人に抱きしめられるという、暖かさを体いっぱいに感じる。怯えることのない安心感に、拒否感はまるで抱かなかった。むしろ、しばらくこのままでいて欲しいとすら思った。
(そっか。やっぱりこの人が、私の彼氏さんなんだ。彼氏さん、か)
頭ではわかっていたけれど、会ってみるまで実感がわかなかった。だから日向は実際に聞いてみた。そうだといいなと思いながら。
「……私の、その。……彼氏さん? なんだよね?」
「そうだよ。僕がひなちゃんの彼氏さんこと、純也だよ。純ちゃんだよ。うう……。やっぱり忘れちゃったんだ。わかっていたけど、悲しいな……。でも、不幸中の幸いだったんだ。生きていてよかった」
「あ、えと、ごめんね。彼氏さんだったら……。そうだったらいいなぁ、って思ったの。だから、聞いちゃった」
日向はちょっと後悔した。心配してくれてる人に対してあまりにも無神経な態度だったかもしれない。けれど、聞かずにはいられなかったのだった。
「そうだよ僕がひなちゃんの正真正銘の彼氏さんだよ! そうだからいいの! 違わないよ! ああでもホント、忘れられちゃったけど、それでもひなちゃんが無事でよかったぁぁぁ~! ひなちゃああーーーーんっ!」
何回も、これが現実であることを確認するかのように、純也は無事でよかったと繰り返した。ほんのちょっとだけ運命が狂っていれば、今こうしてお話することさえかなわなかったかもしれないのだ。
純也はこうして日向と話をしているうちに、これまでのじりじりとした緊張が解けて安心したのか、やがておーんおーん、びええええんと漫画のように泣き出した。そうして日向をきゅっと、ほんのちょっぴりばかり力を入れて抱きしめてしまうのだった。果たしてこれは感動的なシーンなのだろうか? あるいは大げさで騒がしいコメディチックなシーンなのだろうか?
「あ、あの……」
「ひ~な~ちゃああ~ん! って、痛くない? 痛かったらごめん!」
「う、うん。全然痛くないよ」
「そっか。よかった! ひなちゃああああああんっ!」
日向の包帯が巻かれた箇所を意図的に避け、控えめに力を込めている純也。
(ひなちゃん、か。ひなちゃんって、私のことなんだ。日向だから、ひなちゃんか。そっか。私、みんなからそう呼ばれていたんだ。……好きな人。彼氏さん……。うん。何だかわかる気がする)
その時だった。日向とは違う女の子の、ちょっと怒ったような、苛ついたような声が聞こえた。
「純也! いい加減にせんかいこら! 放してあげなさい!」
「ぐおっ!」
純也が日向に対して優しいハグを続けていると、突然背後から首元にゲシッと空手チョップをくらうのだった。その強烈な一撃によって、日向は解放された。
「ひなちゃんが嫌がってるじゃない! い~加減放してあげなさいってぇの!」
(うーん。嫌がってはいないんだけどね……。むしろ、その……そのままで、いて欲しかったかも。なんて)
それでもちょっとだけ、ほっとした日向。
「いてぇ! なにすんだよ紗理奈!」
いつの間にか、気配すら感じさせずに現れた人物が、純也に言い放った。……実際には、純也がやかましくしていたお陰で、気配はおろか、ノックと共にドアが開く音も気づけなかったのだが。
「静かにしなさい。ここは病院よ」
極めて真っ当な指摘と共に現れた彼女こそ、純也と日向にとってもう一人の幼なじみであり、クラスメイトでもある藤乃紗理奈だった。
紗理奈は、二人が登校中に事故に遭い、病院に搬送されたと聞いて大変心配になり、お見舞いに来たのだ。
そんな時、本来静粛にすべき病室が妙に騒がしかったので、中を覗いて見て『あー何だ、純也のアホが騒いでるのか』と、納得したのだった。
空気というか場というか、TPOっていうものをまるでわかっていない馬鹿野郎が一人、泣きながら騒いでいた。しかも、怪我をして体中に痛々しく包帯が巻かれた彼女に抱き着いているという、許されざる事態。そんなところを見た日にはもう、強引に引き剥がすしかないだろう。
「ったく」
紗理奈は一見すると、格好いい美男子にでも見間違えそうなくらい、ボーイッシュな女の子だった。
ロングヘアの日向とは正反対に、思いきりよくばっさりと切られたショートヘア。部活道で鍛えられ、引き締まった体。そして、気高くも強気な性格であることを感じさせる、澄み切った青い目。
実際、紗理奈の腕っ節は相当に強く、喧嘩の実力も純也など比較にならない程なのだった。そして、少々頭に血が上りやすく、口よりも先に手や足が出てしまうことがあるという、困ったさんでもあった。
そんなだからか、異性よりも同性から好かれることが多いのが目下の悩みとか。そんな彼女が純也にとって、日向とは見た目も性格もまるで正反対の、もう一人の幼なじみなのだった。
「あんたね。今のひなちゃんは記憶喪失なの。きおくそーしつ! 悲しいことにあんたは今、ひなちゃんにとって彼氏さんでも何でもない単なる見ず知らずの赤の他人でしかないっつーんだよ! そんな、どこの馬の骨とも知れないアホ野郎にいきなりベタベタ抱きしめられたら、女の子がどう思うんだか考えなさい! 不安に思うでしょうが! トラウマになるでしょうが! 犯罪よ! 変質者よ! セクハラよ! わかれコラ!」
「……う。そ、そうはっきりそう言われると、何だかフられたみたいで、すごいへこむ」
(そんなことはないんだけどなぁ)
困ったように微笑む日向。
でも、紗理奈が言っている事は完全に事実なので、純也は全く反論できなかった。いつもこの紗理奈という子はど直球な正論で攻めてきて、反論する余地すらない。当の日向は紗理奈の剣幕に、ちょっと困っていた。
「へこんでていいから、さっさと解放してあげなさい。大体ね。ひなちゃん怪我してるんだから、痛いでしょ!」
「あは……。だ、大丈夫だよ? 全然痛くなかったから。本当だよ?」
隠しても配慮しても仕方がないから、純也に対して非情な事実をずばずばと突きつけ、情け容赦ない紗理奈。純也はだいぶしょげながらも、日向の体から放れたのだった。
そして、素直に頭を下げて謝った。今のは大変軽率な行為だったと、ごめんなさいをした。
「ひなちゃん。……突然抱き着いたりしてごめんなさい。僕、ずっと待たされてて。不安になっちゃって。で、ひなちゃんが無事でよかったって思って。つい、ほっとしちゃって。それで、我慢できなくなっちゃったんだ。本当にごめんなさい」
「あ、ううん。気にしてないよ? 気にしないで。……えっと」
知っているはずの人。けれど今では純也と同じく忘れてしまい、見知らぬ少女。紗理奈の顔を見て日向は戸惑う。誰なんだろうと。
「本当に忘れちゃったんだね。あたしは藤乃紗理奈。あなたの……ひなちゃんの幼なじみだよ。ついでにこいつの、純也の幼なじみでもあるんだけどね」
「僕はついでかよ!」
純也のさりげない突っ込みを、同じくさりげなく無視する紗理奈。もし仮に純也がしつこく食い下がってくれば『うんうん。ついでついで。わかってるじゃない』とか言ってくるに違いない。純也の戯れ言をあしらうのに慣れているのだから。
「そうなんだ。えっと……よろしく、って言えばいいのかな?」
「何か違うと思うけど。今の状況だと、それが正解なのかもね」
純也はわなわなと震えている。やっと落ち着いたはずなのに、二人のやりとりを見ているうちに、また感情が込み上げてきてしまったようだ。
「うううう。でもでもひなちゃん……ホントによかった。……無事でよかった……う~」
それに対して紗理奈はまるで、保護者のようだ。
「あーうっさい! 今あたしはひなちゃんとお話中なの! 静かにしてなさーい!」
「だってだって、ホントにほんとに心配だったんだもん!」
「そりゃ、あんたが心配しているのはわかるわよ! けどね、ちったぁ落ち着けってんだ! ガキかあんたは!」
「ガキじゃないやい! こういう状況なら仕方ないだろが! これが落ちついていられるかーーーー!」
本当に。なんだかまるで、知り合いとお話をしている親と、そのお話の内容が大層つまらないので構って欲しくてしかたがなく、しつこく邪魔をしてしまう子供のようなやり取りだ。
二人の様子を見ていて、日向はくすくすと笑った。
日向の笑みを見て、純也も紗理奈も言い争いをやめ、おかしそうに笑いあった。場が和やかになっていく。
「なにやってんだろうね、あたしたち」
「不毛な争いってやつだなこれは。取り乱して悪かった……」
「うん。わかってくれればいいよ」
ようやくのことで落ち着く二人。流石に純也も、ちょっとは頭が冷えたようだ。
「ひき逃げだったんだってねぇ」
「うん。そうだったみたい。……突然だったからナンバーなんて覚えてないけど。むかつくな。許せない」
純也は憤りを隠せない。けれど、今は犯人への恨みつらみなんかよりも、日向の方が気になる。警察には、是非とも犯人検挙を頑張ってもらうとして。今はただ、彼女の支えにならなければ。
「やっぱり、何も思い出せない?」
改めて、紗理奈が日向に問う。純也も紗理奈も、無理なのだろうとはわかりつつも、望んでしまう。
「ごめんなさい。何も思い出せないの……」
自分の名前すら思い出せなかったのだ。目の前の二人を見ていると何だか申し訳なくて、たまらなく悲しい。込み上げて来る無力さに、日向は目に涙を浮かべてしまう。
「あ、ああ。泣かないで! ひなちゃんは何も悪いことなんてしていないんだから」
それを見て、おろおろする純也。
「ひなちゃんごめんね。あたし、悪いこと聞いちゃった」
さすがにこれは無神経な質問だったと、紗理奈も後悔した。
純也はあたふたしながらも、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、日向に涙を拭くようにと促して……。
「ひなちゃん」
優しい言葉の一つでもかけてあげようと思っているのが見え見えだけれども、と思いながら純也は口を開いていた。
「ひなちゃん。あのね。こういう状況で、今のひなちゃんに言ってもいいのかわからないし、もしかすると更に不安にさせちゃうだけかもしれないけど。……その。見ず知らずの、他人の僕が支えになれるかどうかはわからないけど。……それでも、頼って欲しいんだ」
「……」
それは純也の本心。嘘偽りのない心からの言葉。純也の真剣な眼差しに、日向は目をそらせなかった。
「困ったことがあったり、不安な時は何でも言って。僕はひなちゃんの力になりたい。ううん。……力にならせて欲しいんだ。お願いします」
軽口を叩いたり、茶化せる雰囲気ではなかった。純也の後ろで紗理奈も神妙な面持ちでうん、と頷いた。純也だけじゃない。紗理奈も同じ気持ちでいてくれる。日向は嬉しくて、込み上げてくる感情を堪えようとしたけれど無理だった。
「ありがとう」
心細さを埋めてくれる嬉しさ。そして、優しい人達の想いに対して何も思い出すことができない申し訳なさ。日向の頬を一筋の涙が伝って流れ落ちていった。
◆ ◆ ◆ ◆
一度にいろんなことを思い出させるのはよくないからと。担当の看護師さんにそう言われて、純也と紗理奈は揃って病室を辞した。
純也の方も診断を受けたけれど、経過観察だということで、しばらく注意深く様子を見ることになった。これもまた、不幸中の幸いだろう。
「うーん、よしよし」
病院を出てすぐに、紗理奈が純也の頭をなでてきた。例えるならこれは、弟を誉めるかのような感覚なのだろうか。
「何がよしよしだ。何だよ?」
「いや~。なに」
紗理奈は心から嬉しそうに微笑む。
「さっきの純也、格好良かったよ」
「は?」
何のことやらと聞き返してしまう純也。
「不安な彼女さんをね。一生懸命勇気付けてあげるところ」
「そりゃ……だって。誰だってあんな状態になったら不安にならないわけないでしょ? だから、さ。何も言わないままではいられなかったんだ。……彼氏として、当たり前のことだと思うし」
全くその通りだ。紗理奈もうんうん頷く。自覚があって大変よろしいと思っているようだ。
「そうだよねぇ。ま~、あたしも何だか無責任なこと言っちゃうけど。大丈夫、だよ。きっとね」
「もちろんだよ。僕も大丈夫だと信じてる。でも。やっぱりそういう根拠のない事は、どうしても言えなかった。本人を目の前にするとね。……もしかしたら、気休めでもそう言ってあげた方がよかったのかもしれないけどね。大丈夫だよと」
「そだねぇ。あたしがひなちゃんの立場だったら……。あの状況でもし『大丈夫だよ』とかそういうことを言われたとしたら」
紗理奈は目を閉じてそのシチュエーションを想像し、どのように対応するか、脳内でシミュレーションする。結論はすぐに出た。
「喜ぶ?」
「ううん。まず、蹴りの一発でも入れてるかな。あぁ? 大丈夫だぁ? んなこと無責任にぬかすんじゃねーーーよっ! 何の根拠があって言ってんだてめーは! って。記憶を忘れちまったあたしのこの悲しみと不安がおめーにわかるってのかおんどりゃーーーっ! って。思いっきり情緒不安定になってると思う。鎮静剤でも打った方がいいくらいにね」
「ほらみろ。このメンタルがダイヤモンド並みの紗理奈さんですらそうなんだから。ひなちゃんはめちゃくちゃ不安になっているよ」
「そうそう。……って、あたしですらってどういうことじゃいこんにゃろ! 何がダイヤモンド並だ!」
「いでででで!」
純也は思いっきりヘッドロックを食らうのだった。
「あんた、あたしがか弱い女の子だってこと、完全に忘れてない?」
「か弱い? 屈強の間違いじゃね?」
その瞬間、ミシッと音がした気がする。紗理奈によるロックの締め付けが更に強まるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
一方その頃。病室に一人取り残された日向はといえば。
「……」
実は、彼と出会った時のことが忘れられなくなっていたのだった。
(私の彼氏さん、なんだよね?)
事前に説明は受けていた。彼と自分は極めて親密な仲なのだと、わかっていた。けれど、再び出会った瞬間に言葉が出てこなくて『誰?』だなんて、冷たく言い放ってしまった。後になって、猛烈に後悔した。もう少し、何か優しい言い方はなかったのだろうかと。
「私……」
実はあのとき、日向は密かに衝撃を受けていたのだ。純也と再会したときに。
(あっ……。って、思っちゃった)
優しくハグされて、それで好きな人なんだって。彼の顔を一目見た瞬間、そう思ってしまったのだ。
(彼氏さんのことを全部忘れちゃって、それでまた一目惚れ……? そんなのしちゃうだなんて、どういうこと? これって浮気?)
やっぱり好きな人は、記憶を失ってしまっても、好きな人なのだろうか? そんな、誰にも言えないような葛藤に苛まれる日向だった。
(また、会いに来てくれないかな)
純也は日向が望んだ通り、放課後に可能な限り来てくれるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
それから、数日が過ぎた。
ここは学校。長屋のような部室棟の隅っこにある、アニメ同好会の部室。そんなところに、部員でもないのに、純也は入り浸っていたのだった。
今日は精密検査を行うとかで、日向のお見舞いには行けないのだ。普段ならばさっさと帰宅して、気ままにゲームをやるなり音楽でも聴くなりするものだが、この所そういう事をする気にはなれないでいた。そんな時の暇つぶしとして、入り浸れる場所がここなのだ。
「なー純也」
「なんだい竹坊」
クラスメイトの一人。知性派の竹本くんが、適当にスマホをいじっていた純也に話しかける。
「すごく聞き辛いんだけどさ。日向ちゃん、どうなの?」
「命に別状はないってさ。あと、外傷も、表に出るようなものは少ないって」
顔や肌に傷ができたりするのも、女の子にとってはショックなことだから。不幸中の幸いがまた、続いたようだ。
「そっか。てか、純也の方はどうなんよ? お前もいっぱしに事故ったんだろ? 意識失ったって聞いたけど」
「あー。脳しんとうだったけど。他はかすり傷だよ。ちょっとばかりむち打ちになったくらいで、その後の経過は良好だよ。精密検査も特に問題無いみたいでさ。ただ、何回か通院しなきゃいけないみたいだけどさ」
「それならいいけどさ」
彼が聞きたいのは、きっと更に深いところなのだろう。純也も、信頼している友達にはある程度話してもいいかなと思っていた。純也にとって彼は、信頼できる友達の一人だった。だから、包み隠さず話した。
「ひなちゃんの記憶はね……。家族のこととか、それなりには覚えているらしいんだけど。友人関係とか、学校のこととか、自分自身のことなんかはだいぶあやしいみたい。僕の事も、何だかぽっかりと欠落しちゃってるみたいなんだ」
「そうなのか」
「まあでも。それでも、重度のものじゃないっていうからさ。不幸中の幸いってところ。せめてもの救いとか、そんなところだな。……最悪の場合は死んじゃったり、脳死っていうのかな。植物人間になっちゃったり、なんてこともあり得たわけだから。それに比べれば、ね」
人にとって、死というものはごく当たり前に存在するものなのだ。頭ではわかっていても、普段はまるで想像できなかった。生きていることは当たり前ではない。人は、命は、ちょっとした切っ掛けで失われてしまう。何だか怖いなと、純也も竹本くんも思った。
「何だか悪いことを聞いちゃったな」
「悪くなんてないから気にすることはないよ。隠すことでもないし。……にしてもなぁ」
純也はスマホをテーブルの上に置き、残念そうに呟く。あーあと嘆くように。視線は壁の方を向いていた。
「まっちゃんが折角作ってくれたあの衣装。すげえいい出来なんだけどなぁ」
「まったくだね」
二人は揃ってうんうんと頷いた。純也の口から出たまっちゃんとは、クラスメイトの松田くんのことだ。その他にもう一人、梅沢くんという男子がいて、三人でアニメ同好会をやっているのだった。
名字に松竹梅とつく、何だかおめでたい三人は、三馬鹿とか三羽烏とか、あるいはズッコケそうな三人組だとか、みんなからは言われては親しまれていた。
「ひなちゃんを説得中に、こんなことになるなんてな」
純也が溜息をつきながら、ぶつぶつと言っている。
「うん。絶対似合うと思ったんだけどな」
壁にかけられているのは、とあるアニメキャラクターが作中で着ている衣装だった。紫色をした、レースとリボンが可愛らしい、少女の衣装。これはアニメ同好会の皆が総力を結集させて作り上げた、本格派なコスプレ衣装なのだ。
大人も子供と一緒になって楽しめるという、日曜日の朝にやっているアニメ。通称ニチアサ。そこで放送されているアニメの一つが、プリティギアだった。通称プリギア。可愛らしい女の子が、美少女メカ戦士に変身して悪い奴と戦うというのが大まかなあらすじだった。もう何年もシリーズが続いている、伝統の作品だ。ちなみに今現在放送しているのは、ハピネスキャッチ・プリティーギアという名前だった。
運命を司る歯車は砕けない! という、勇ましいキャッチコピー。そんなアニメに出てくるとあるキャラクターが、日向のイメージにまさにぴったりなのだ。だからアニメ同好会の面々は、日向にこの衣装を着てもらうことを望んだ。
純也もそのアイデアを聞いて真っ先に『いいなそれ! 最高かよ!』と思ったので、彼らの望みを叶えてみるように動いた。
けれど、日向の答えは『恥ずかしいよ……』とのことだった。無論純也も、一度や二度の失敗でめげるつもりはなかった。コスプレしているところは絶対に誰にも見せないから。撮った写真も僕達だけの秘密にするから。着てみたら絶対可愛いから! 楽しいから! だからお願いです! この通りです! レイヤーさんになってください! と、場合によっては土下座をしてでもお願いをするつもりでいた。
そんな時に、あの事故が起きてしまったのだ。
「ギア・ムーンライツ。……ひなちゃんにぴったりだったのにな」
「うん。イメージぴったりだよね」
そのキャラクターは、普段は眼鏡をかけた物憂げな美人さんだった。まさに、日向にぴったりなのだ。アニメのコスプレをして欲しいと、いつまた、そんなことを話せるようになるのか、皆目検討もつかないのが悲しい。
「捨てないでとっておいてよね。きっと、そのうちまた、お願いできるようになると信じているから」
「勿論だよ。散々苦労して、お金もかけてつくったんだから。捨てるわけがないでしょ。俺も、その日が待ち遠しいんだから。カメラのレンズを拭いて待っているよ」
きっとまた、そういう日が来る。来てくれる。みんなで楽しくコスプレの撮影会ができるような日が。
二人はそう信じていた。
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