6.愛香-まなか-

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6.愛香-まなか-

 人は、ふとした瞬間に誰かを好きになったりすることがあるもの。  ちょっとした、ほんの些細な優しさに触れたりして、それで心が大いにときめいたりすることがあるのだ。  若年の、感受性が溢れる子なんかは特にそんなことが多いのかもしれない。  そしてここにも、そんな子がいた。恋する乙女な女の子が。 (先輩、か)  特に何をする気も起きず、ただひたすら自室のベッドに寝転がりながら物思いにふけている。  彼女は純也や日向達にとっての下級生、つまりは一年生。緑川愛香(みどりかわまなか)という名前の女の子だった。  愛香は今、一人の男子生徒の顔を思い浮かべていた。時間にして十数分程度。ロクに話をしたこともないのだけれど、自分の中では彼の事を勝手に先輩と呼んでいた。 (沢村先輩)  彼の名は人づてに聞いて、ようやくのことで知ったのだった。  もう、だいぶ前のことになるけれど、彼女は純也にいろいろとお世話になったことがあった。今から半年以上も前の事。丁度、高校に入学したての頃だ。 (あの時は、部活があるからめちゃくちゃ急いでて。それで……)  バスケ部に所属している彼女はその日、とても急いでいた。  うっかりと朝寝坊をしてしまったがゆえに、朝練に遅れそうになってしまった。だから、遅れを取り戻そうと必死に走っていた。何とも間抜けな状況だ。本来、こういう事は無いようにしなければならないが、寝過ごしてしまったものはどうしようもない。  そして校門を抜け、普段は通ることのない校舎と校舎との間にある中庭をショートカットの為に通っていき、部室に駆け込んだ。  そのまま慌てて練習着に着替えて、やっと一息……というところで大切なものがないことに気づいてしまった……。 (うわっ!)  一瞬で、やばいっと思った。 (スマホが無いっ!?)  え、嘘? マジ!? そんなっ! え? え? 何でっ!? と、思った。どきんと胸が高鳴ったような、そんな気がした。今となっては笑い話だけど、あの時は本当に動揺してしまった。 (ああもう。ほんとにドジだったなー。馬鹿すぎだったなー。ああ、穴があったら入りたい)  家を出る時。乱暴に、制服のスカートのポケットなんかにスマホを押し込んでいたのが悪かった。全速力で走っている最中に、どこかでポロリと落としてしまったようだ。  その事にようやく気がついたのは、着替えが終わってからのことだった。  結局、バスケ部の部長にその旨を説明して、探しに行くことになったのだ。これによって、早起きをした意味はまるでなくなってしまった。まさに骨折り損といったところか。 (でも、どんなに探しても、どこにもなかったんだっけ)  無論、早朝なので学校の中には誰もいない。通ってきた道を戻ってみたけれど、やはり見つからない。愛香は途方に暮れた。一体どこを探せばいいの? 私のスマホはどこにあるの? と。 (それで、ああもうどうしよって。私、いっぱいいっぱいになっちゃって)  このまま見つからなくて、例えば誰か悪い人が拾ったとして、犯罪とか悪戯とか、とにかく悪用されたらどうしようと愛香は思ってしまった。考えたくないような事が次々頭に浮かぶ。  携帯キャリアに電話をかけて、紛失した旨を伝えなければいけないのかな? あ、でも、そもそも電話がないわけで、今時公衆電話なんかも少なくなって滅多に見ないし、ああ、一体どうすればいいんだ。と、そんなふうに呆然とした。 (そんなときだったっけ)  愛香は心なしか涙目になっていた。やがて堪えきれずに段々ぽろぽろと涙が零れていった。ぐすぐす、ひっくひっくと少ししゃくり上げ、おろおろしながら誰もいない中庭をあてもなく探していた。  そんな時、ふいに声をかけられたのだ。 「どうしたの?」 「あ……」  何でもないです、とは言えなかった。それ程に、愛香は困り果てていたのだ。気が付くと、見知らぬ男子生徒に自分が何をしているのか、どういう状況に置かれているのか、具体的に説明をしていた。 「えと……その……。私、走ってるときにスマホ、どこかに落としちゃったみたいで。学校のどこかにはあると思うんです……。たぶん、この中庭のどこかじゃないかって思ってて。でも、見つからなくて」  校門から入ったときは、確かにポケットの中に固いものが入っていたような気がする。無くしたのはその後だろう。そう説明したらその男子生徒は、頼んだわけでも無いのに……。 「そうなんだ。大変だったね。じゃあ、探すの手伝うよ」  親切に、そう言ってくれたのだった。 「え……。あ、はい。すみません」  えっと。この人は誰なんだろう?  自分よりも上の学年っぽいけれど、そもそもなんでこんな早朝にいるんだろう? 部活をしているわけでもなさそうだし。  そして何で、あたしが落としたものを探すお手伝いをしてくれているんだろう?  後から考えると色々な疑問がわいたものだけど、その時はとにかく落とし物を探さなければいけないという気持ちに心が染まっていた。  両親に許可を得て、限られた時間でちまちまとバイトをして、月々のお小遣いもこつこつと貯めて買った格安スマホ。ケースもストラップもお気に入りのものを厳選して新調したばかりで、大切に使っていた。無くしてしまったら絶対に困るものだった。  それからしばらくの間、二人であちこちを探してみた。けれどやはり、見つからない。愛香は落胆を隠せなかった。やっぱり、ダメか……。  そんな時だった。ふと彼は、妙案を思いついたようだ。 「そだ。よかったらさ。番号教えてくれないかな? 僕のスマホでかけて鳴らしてみるから。……ああ、ちゃんと発信履歴は君の目の前で消すからさ。やっぱり、嫌かな?」 「は、はい。嫌じゃ、ないです。えっと……」  冷静に、後になって考えると、これはもしかするととても迂闊な行為だったのかもしれない。けれど、愛香は純也に言われるがままに、口頭で番号を伝えたのだった。純也は自分のスマホを慣れた手付きで操作し、発信する……。 「マナーモードになっていなければいいけど」 「大丈夫、です。していない、です」  発信してから数秒が経過する。 「あ!」 「お?」  少し離れたところから、はっきりと音がした。聞こえた! いつも聴き慣れた、愛香にとってお気に入りのバンドのメロディだ! 近くにある。どこだ? あまり手入れがなされていなくて所々雑草が生い茂っている植え込みの中をかき分けてみる。……あった。あっさりと見つかった。植え込みの下の方。根っこが密集しているところにすぽっと、隠れるように入り込んでしまっていた。 「あった!」  よかった。本当によかった。愛香の涙でくしゃくしゃになった顔は、いつしか笑顔になっていた。 「あったみたいだね」 「はい! ありがとうございます! ああ、よかったぁ~」  ほっと一息。胸を撫で下ろす。確かに、ものすごくわかりにくいところだった。よりにもよってそんなピンポイントなところに入り込んでしまっていたとは、思いもよらなかった。 「よかったあ……。あたし。慌てて走っていて、こんな所にポロって落としちちゃったんだと思います。こんなところにあったなんて、普通に探していたらわかりませんよ。絶対」 「だよねー。確かにわかりづらいね」  スマホは少々泥がついて汚れてしまったけれど、大した問題ではなさそうだ。 「そっか。よかったね。それじゃ、っと。……見てて。発信履歴、今から消すから。ほい……。消したからね」  それから彼は律儀に、愛香の目の前で発信履歴を消去してみせたのだった。 「ありがとうございます。本当にもう、何てお礼をいえばいいか」  愛香は礼儀正しく、ぺこりと頭を下げるのだった。ただ、それしかできないから頭を下げ続ける。 「いいっていいって。困ったときはお互い様だよ。それじゃ」  彼はにこっと笑い、去っていった。  愛香にとって彼は、唐突に現れて、あっという間に去っていったように思えた。  ちなみに彼。……沢村純也くんがこんな早朝から学校にいた理由とは、実に馬鹿馬鹿しいものだった。 (ひなちゃんが、クラス委員の当番だかで駆り出されてて朝からいない。……家にいても寂しい。一緒に行くこともできない。だったら僕も学校行く。行ってやる! 早く行っても、特にすることも何もないけど)  という、んなことができるのなら普段から早起きしろよと、誰もが突っこみをいれたくなるような、下らない理由だった。 「あ……」  それはさておき。  しまったと愛香は思った。せめてお名前くらいは聞いておくべきだったのではないか? と。  けれど、彼はさっさとどこかに去ってしまっていて、今となっては後の祭り。どうにかして探しだしたかったけれど、バスケ部の朝練もまだ続いているし……。結局諦めて、部室に戻ることにしたのだった。  そんな些細なことで、その日から愛香は彼のことが気になってしまったのだった。  どうしようもなくて、いっぱいいっぱいになって、絶望的な気持ちになった時。どこからともなく現れた彼は、とても優しく親切にしてくれた。ただそれだけのことで、彼の事を何も知らないというのに、好きになってしまったのだった。 (この単純娘。馬鹿じゃないの?)  自分自身に抗議してみせるも、だって、そういう気持ちになっちゃったんだから仕方がないじゃないかと、逆に言い訳をしてみる。 (あたしの一つ上の学年で、名前は沢村純也さん。だってさ。個人情報まで調べちゃって。ストーカーかいな、あたしは)  彼はお調子者な性格で、クラスでは結構目立っている方らしい。そして彼の事を更に調べていくウチに、愛香にとって極めて残念な調査結果が判明したのだった……。 (彼女さん、いたんだよねー)  目撃したのは、彼と並んで歩く彼女の姿だった。それはもう、楽しそうに笑いながらお話をしていた。 (……実際に見てみたけど。細くて美人さんで、真面目そうな人だった)  あ、無理。これはまるでかなわないなと愛香は思った。見ただけでオーラが違うような気がした。スマホのRPGでありがちな、現行のレベルと装備では、まるでダメージが通らないだろうなって思うのがわかるくらい、強そうな相手だった。  まず、美人度がまるで比較になりません。その美人さんは、桜美日向さんというお名前らしいけれど。彼……沢村先輩は彼女の事を、ひなちゃんと呼んでいるとかで。更に、二人は小さい頃からずっと一緒にいる幼馴染みとのこと。ああ、年季も違いすぎる……。それに対して自分は、困って弱ってぐすぐすしている時にちょびっと親切にされて、それで一目惚れしちゃった程度の経歴。 (絆も違いすぎるよ)  爆死だ。ダメだ。ああ、自分の密かな恋心は、表に出ることもなく敗北が決まってしまったのだ。愛香はしょぼーんとしながらも、まあでも、仕方のないことだなと、事実をありのままに受け入れることにした。恋なんて、こんなもんだよ。仕方がないよと思うことにした。こういう事もあるよ、と。 (ですよねー)  と。  男の人は世の中に大勢いるよ。この恋がダメだったとしても、嘆く必要はないんだよと、自分を慰めるように、無理やり思い込む。  そうだ。ただ単にご縁が無かったんだ。これからの良縁をお祈り致しますと、そういったところだ。って、何だそのお祈りってのは。就職でメール一通で落とされて、不採用通知という名のペラ紙一枚。その最後に書いてある、頼んでもいないお祈りをされているようなものだ。虚しい。実に虚しい祈りだ……。そんな祈りはいらない。消えてしまえ。 (それなのに、さ)  今になって、知った。知ってしまった。驚愕の事実を。  自分が知っている二人が交通事故に遭い、一時的に意識不明になってしまったこと。え? と、思った。どきん、と胸が張り裂けそうになった。けれど、また別の感情が込み上げてきたのを自覚した……。 (あーもう。最低だなって、本当に思う。ゲスだよ本当に。何考えてんのよ)  純也は幸いな事に軽傷で、だけどその彼女は、記憶の一部を失ってしまったそうだと知った。  記憶の一部……例えば、大好きな彼氏のことも、友達のことも、学校のことも、欠落したように忘れてしまったんだそうな。そんなことって、あるものなんだ。テレビドラマか何かですかって、正直に思った。 (無理だってわかっていた。そんな事を言ったらダメだってことも、わかっていた。それなのに……。ああああ、あたしの馬鹿馬鹿馬鹿。大馬鹿。人間のクズ! 最低女! 火事場泥棒!)  元々自分は、思った事は全て言わなければ気が済まないとか、そんな性格ではなかったはずだ。そもそもが、胸の奥に秘めて消し去ろうとしていたはずの思いだったはずなのに。何で今になって再燃してきたんだ。  そうだ。一つの思いが急に込み上げてきたんだ。  ……告白しないまま終わりたくはなかった。と、いつしかそう思ってしまったのだ。何でそこで執念を見せるのか? その無駄な労力を他に向けようとは思わないの? 本当にもう、わけがわからないよと彼女は自分自身を罵った。  そして紆余曲折あって、全てが終わった後で、彼女は後悔という名の自己嫌悪にまみれながら、それでも思いを断ち切ることができたのだった。  彼。沢村純也先輩へ、ダメ元の告白をした後。  見事にフラれた後で、ようやく……。
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