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三遍回って煙草にしよう
今回お話しするのは、私の祖父から聞いたものだが、何しろ古い話で、聞いた私も幼かったので、細部までは覚えていない。
ただ、この話は教訓というか、なかなか面白い話だと個人的には思うものだ。
戦後間もなくのこと。当時、祖父は税務署に勤めていたのだが、税務署は今と同じように春先はとても忙しく、残業続きの毎日。
その日も祖父は残業で深夜の帰宅となり、家に帰り着くことすら、なかなかの難行であった。
なぜなら、自宅は山一つ越えた先にあり、山道を抜けるのは近道ではあるものの、夜は真っ暗で危険である。いつもは遠回りにはなるが、山すそをぐるっと回っていく道で帰っていたのだ。
しかし、この日はあらかじめ深夜に帰ることがわかっていたので、税務署の小使いさんが携行用ランプを用意してくれていた。
そこで今日は、山道を使って帰ることにした。
山、といっても、それほど高くはない丘のようなものだが、鬱蒼とした木が生い茂る道ではある。その道を、祖父は携行用ランプの灯りを頼りに歩いて行く。
舗装こそされていないものの、この辺の住人の生活道路ゆえ、ほどほどの広さもあり、踏み固められて凸凹もほとんどない、歩きやすい道ではあった。
祖父は早く帰りたい一心で、ひたすら歩いていた。ひとりで黙々と暗い山道を歩いているうちに、時間の感覚がなくなっていることに気づいた。
(おかしいな……。随分歩いた気がするが)
立ち止まってあたりを見回す。
山道、それも真夜中である。時間の感覚もなくなるが、自分が歩いている方角が正しいのか、急に不安になった。
通勤で使い慣れている道だから、磁石なども携帯していない。いや、そもそもがとてもわかりやすい道なのだ。入り口には営林署が設置した看板もあり、そのままほぼ真っ直ぐの一本道、迷いようがないのである。
それなのに、行けども行けども終点にたどり着けない。道の終わりはこれまたわかりやすく、突き当たりに郵便物や雑貨を扱う店があるのだ。
(いくらなんでも雑貨屋が見えてきてもいいくらい、いやそれ以上に歩いているはず……)
戦後間もない物資不足の時代、祖父は腕時計などという洒落たものは持っていない。
真っ暗な山道、壮年で体力のある男性でも不安になろうというものだ。
「ホーホー」
梟の鳴き声とともにバサバサバサと木々の葉っぱを揺らす音がして、祖父はびくっとした。
(落ち着け……。焦っている時こそ、落ち着かなければ)
祖父は地べたに倒れこむように座った。どっと疲れが押し寄せた。思いのほか長時間歩いたようだ。一服しよう……。
祖父はおもむろに、背広のポケットから煙草を出した。「3遍回って煙草にしよう」そう声に出して言い、煙草に火をつけた。
その瞬間、霧が晴れたように明るくなり、すぐ目の前に雑貨店が現れた。
「えっ!」
煙草を吸うのも忘れ、呆然となる。
「どういうことだ……」
祖父は驚き呆れ、店の扉を叩いてみた。
「夜分遅くにすみません。◯◯地区の橋本です」
奥のほうで灯りがともり、ガラス戸越しに人影がこちらに歩いて来るのが見え、やがてガタガタと鍵を開ける音がする。ガラッと勢いよく戸が開いて、店の主人が顔をのぞかせた。
「おや、橋本さん。お早いですね。何か御用ですか?」
年配の主人は春先のこととて褞袍を羽織り、寝起きゆえか、いつもより蓬髪が目立つ。
祖父は面食らった。お早い、とはどういうことだ?
「いや、すみません。こんな真夜中に。仕事帰りなんですが、今何時でしょうか?」
「仕事帰り ⁈」
店の主人は素っ頓狂な声を上げた。
「はい。残業で遅くなって、早く帰りたかったので近道で帰ってまして」
「橋本さん、今はもう朝の5時すぎですよ、ほらそろそろ明るくなってきたでしょう?」
祖父の言葉を遮るように言った彼は、祖父の後方を指差す。
「え?」
雑貨店の主人が指差す先には、白々と明かるんでいる空に薄い月が浮かんでいた。
驚いた祖父は、手に持っていた煙草を取り落とした。
「狐狸のしわざですな」
雑貨店の主人はにやにや笑い、祖父の落とした煙草を踏んで火を消すと、「とりあえずお茶でもどうぞ」
そう言って、祖父を家に招き入れてくれた。
温かい番茶を飲みながら、祖父は主人から『狐狸に化かされる話』を教えてもらった。
「山に住む狐狸がいたずらで道を迷わせるんですよ。何時間も同じところを歩かされる。エラい迷惑な話ですわ」
祖父が煙草に火をつけたことを、主人は「よく思いついた、それが正解だ」とほめてくれた。
「『3遍回って煙草にしよう』と昔から言いましてな、どん詰まりのときはひと休みして、煙草に火をつけたらよろしいのです。こういう狐狸や低級な霊の仕業で迷惑を被った場合は特に」
祖父もふと、その言葉が頭に浮かんだので煙草休憩したのかもしれないが、幼い私もその言葉だけは知っていた。
それはいわゆる『犬棒かるた』にある1枚の札。『犬棒かるた』は「犬も歩けば棒に当たる」ということわざが有名な、諸事ことわざを集めたかるたである。
その中にある謎の1枚が『3遍回って煙草にしよう』である。『念には念を入れよ、休憩は見回りを終えてから』という教訓だが、本当の意味は違うのではないか? と言われている。店の主人も、その教訓とは違う意味で使ったのだろう。
彼によれば、物の怪に騙されて祖父のような目にあったときは、煙草に火をつけたらいいらしい。
煙草がなければマッチやライターで良い、とにかくひと休みして火をつけてみると良いと言う。
「火がないときはどうしたらいいのでしょう?」
祖父がたずねると、店の主人は「うーん」と腕組みし、「とにかくひと休みして、一旦そのことから離れるのかなあ」と言った。そして続けて、「迷子になったら、そこでじっとして何も考えない。落ち着いてから、もう一度進み始める」と答えた。
店の主人のその言葉は『人生訓』のように思えた。
私も最近は折に触れ、その言葉を思い出すようになった。
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