電車内での回想

1/1
前へ
/11ページ
次へ

電車内での回想

 銀座方面に向かふ電車に乗り込むと勤め帰りの人々で程々の込み具合、特に変わつた様子も無く平和で平穏で何よりだ。電車は滑るやうに走り出し、規則的で単調な揺れと静かな走行音が心地好さを生む。車窓には立つてゐる私の上半身が鏡のやうに映つてゐる。同年代の男に比べると長身、骨太だ。健康丈が取り柄で、風邪以外の病気をした事無し。人は私を漫画の巨匠・手塚治虫に似てゐると言ふ。  大学は中堅私立の経済学部で闘球(ラグビー)三昧だつた為、学問と就職活動を疎かにしてゐた。四年生に成つてから後悔したが後の祭りだつた。(バブル)経済期だつたのに真面(まとも)な就職先が無かつたのだ。私が就活を始めたのは四年生の秋に()つてからだつた。演習(ゼミ)の学友達は早々に就活を開始してゐたらしく、私の知らぬ間に殆どが就活を終へてゐた。  私は完全に出遅れて仕舞つたのだ。其れに大手企業は(とう)に募集を終へてゐた。中小企業を受けてみたが、うちの大学名丈では就職に有利とは言へ無かつた。焦つた私は闘球部員達に就活状況を尋ねてみた。彼らの話題は何時も闘球の事ばかりで就活の事等一切口にし無かつたのに、縁故の有る者は縁故採用、成績優秀者は教授の口利き、利用出来る物は何でも利用して皆、()つくに就職先を見つけてゐた。  闘球ばかりして無いで、(しツか)りと勉強や就活をしておけば良かつた……! 何度後悔した事だらう。(やつ)と小さな呉服問屋から内定を貰つても延々(ずつ)と私は後悔し続けてゐた。大学時代に付き合つてゐた彼女は一流企業に就職して疎遠に為つて仕舞つた。数年後、会社の先輩と結婚した彼女から、花嫁衣装(ウエデイングドレス)姿で幸せさうに微笑む「結婚しました」葉書が届いた。  此んな小さな呉服問屋で月給取り(サラリーマン)なんか何時迄も演つてゐられない! 此んな小さな会社、大手と比べると生涯賃金が低過ぎる。此の儘では結婚も出来無い。若し結婚出来たとしても子を設ける事は出来無い。此んな安月給では子供を大学迄行かせて遣る事など出来無い。自分で起業しやう。此の呉服問屋を足掛かりにして、起業する為の手掛かりを見つけやう。四十(しじふ)迄に何とか起業し無ければ私は一生独身だ。其んな淋しい人生は厭だ! 私は家族が、愛する者が、愛してくれる誰かが欲しい。  其の小さな呉服問屋で私は懸命に働き、社内での信頼を得、全国各地の織元や染元、関東一円の卸先の販売店からの信頼も得、着実に人脈を作つた。そして、全国に呉服店を(チエーン)展開する呉服販売会社の幹部の娘と見合ひ結婚し、子を設けるに至つた。此の見合ひは将来呉服問屋として独立した時に販路を確保・拡大する為の物だつた。先に結婚したのは退路を断つ為だ。子迄設けて仕舞つたらもう後には退け無い。  家内(ワイフ)が二人目を身籠つた。此の儘月給取り(サラリーマン)では老後破産必至だ。家内(ワイフ)と二人の子供達の存在に背中を押され、私は独立起業した。そして十年が()と言ふ間に過ぎ、舅が自社の関東中部区域(エリヤ)の販売店の仕入先として私の会社を取り立ててくれた御陰も有つて経営は軌道に乗り、渋谷の松濤(せうとう)に家を建て豪州(オーストラリヤ)に別荘を購入した。『娘や孫達に豊かな人生を』と願ふ舅と『自社を発展させたし』と願ふ私の利害が一致した結果だ。  家内(ワイフ)と子供達を初めて帆艇(ヨツト)停泊場(ハーバー)付きの別荘に連れて行つた時、大(はしや)ぎする子供達を見乍ら家内(ワイフ)は幸せさうに言つた。 「私、幸せよ。貴方と一緒に為つて良かつた」  私も幸せな筈なのに、何故か気は重く、心は晴れ無かつた。其れは今後も延々と続く割賦(ローン)返済の所為(せい)かも知れ無かつたが……。  心疲れし時、心折れさうな時、私は(かなめ)に会ひたく為るのだ。早く要に会ひたい。  彼女は訪問着や附下げと謂つた礼装用の着物が似合ふ。黒髪を大抵は夜会巻きに結つてゐる。※整爽(すつきり)と形良き襟足、卵型なる顔の輪郭、富士額、柳眉、切れ長の涼し気な目元、鼻筋の通つた色白の顔、唇の両端にキユツと窪みの在る御千代保(おちよぼ)口、綺麗な歯並び、撫で肩故に着物が似合ふ。  要には明るき色調で四季折々の草花を染め上げた京友禅、艶麗な色彩で知られる加賀友禅等の(はん)()りとした友禅染、処々(ところどころ)金糸を使つて織り上げてゐる為に生地が綺羅綺羅(きらきら)と輝く金通(きんとほ)しが良く似合ふ。帯は金や銀の西陣織が多く、正倉院文様等の古典文様が好みのやうだ。理論(セオリー)通りに訪問着には袋帯、附下げには名古屋帯を合はせ、上辺(じやうへん)に丸みを付けた粋な御太鼓に結んでゐる。蝶の背紋を入れた薄紅(うすべに)色の金通しの色無地に金の袋帯を締めた要は、天女のやうに見えた物だ。  そして草履。此処に要の美的感覚(センス)と合理精神は発揮される。倶楽部(クラブ)は結婚披露宴会場では無いので礼装用の草履を履く必要は無い。要は※洋風小粋(ハイカラ)な洋風舞踏草履を好んで履いてゐるのだ。※樫樹皮(コルク)材を使用してゐるので軽く、足の裏に剴切(ぴつたり)と沿うので歩き易く、疲れ(にく)くて好いのだと言ふ。  但し、此の洋風草履は後継者不足で絶滅の危機に瀕してゐるので、「何とか為らない物かしら……」と要は心を痛めてゐる。私には如何(いかん)ともし難き事(ゆえ)に心苦しい。否、要は決して私を責めたりはし無いのだが。要が困つてゐるのに何もして遣れ無い自分が情け無く恥づかしく感じるのだ。 ※洋風小粋(ハイカラ) 作者による当て字。 ※樫樹皮(コルク) 作者による当て字。 所為(せい) 本来の読みはショイ。 ※整爽(すつきり) 作者による造語。 剴切(ぴつたり) 本来の読みはガイセツ。意味はぴたりと合うこと。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加