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並木通りを歩き乍ら
新橋駅にて下車し夜の街に出ると、会社を出た時よりも風が冷たく感ぜられ、車輌内では解いてゐた襟巻を巻き直した。高地長毛山羊毛の暖かさと柔らかさが心地好し。此の襟巻は私の誕生日祝ひとして先週、要から贈られし物也。私は高級倶楽部街・銀座八丁目に在る倶楽部『アール・ヌーヴォー』へと歩き出す。八丁目に行くには新橋駅で降りた方が近いと謂ふ事も知らず、銀座駅で降りて並木通りを歩いて接待用の高級倶楽部に通つてゐた頃が懐かしい。
並木通りには仕立ての良い誂へ背広を着た立派な紳士達や他の街では御目に掛かれ無い美女達が行き交ふ。夜の銀座には特有の匂ひが在る。美女達の使つてゐる整髪料や香水や舶来の高級化粧品の匂ひが織り成す独特の匂ひだ。此の華やかな並木通りを案内すれば、接待相手は「ホウ、此れが銀座ですかア」と感嘆してくれるのだ。
だから銀座駅で降りて八丁目迄歩くのも決して悪くは無いのだが、少しでも早く要に会ひたい一心で新橋駅で下車するのである。早足なら十分も掛から無いが、要は未だ出勤してをらぬから並足で行く。大人の男は決して慌てず悠然と、特に銀座では紳士然として歩く物だ。大体、大の男が街中で走るなんて見つとも無いでは無いか。大の男が街中を必死で走るのは、※ゴジラか※シヨツカーか※デエモン族から逃げる為か、家族の危篤に駆け付ける為か、金策に奔走してゐるかだ。
――――実は、私は此れ迄に会社の資金繰りに困つて二度首括らんとした事が有る。家内には私の苦しみ等解ら無い。尤も其れは私が経営全般に就いて家内に話した事が無いからだが。話した処で「大丈夫よオ」と脳天気に言はれるのが関の山だ。御嬢様育ちで世間知らずの家内に経営の事等解る筈が無いのだから。
私が『アール・ヌーヴォー』へ通ふやうに為つたのは同じ※輪番倶楽部の会員の大病院の院長・大槻氏に連れられて行つたのが切つ掛けだつた。氏の紹介で会員と成つたので、今度は私が誰かを『アール・ヌーヴォー』に連れて行つて女経営者に紹介し、彼女の御眼鏡に適へば其の誰かは会員に成れるのだ。然し私は此の店を誰にも紹介し無い。此処は私の心の※保養命泉であり聖域だからだ。
何より私の紹介した誰かが要と、私よりも親しく成る事は堪へられ無いからだ。私に取つて要は聖母なのだ。要は心疲れた私を聖母の如き慈愛と優しさで癒やしてくれる。だから私的に通ふ倶楽部は此の『アール・ヌーヴォー』丈だ。私的に通ふと言つても、二回分の料金を合算して人数を「二名」と記入して貰つた請求書を会社に送つて貰ひ、帳簿上は「接待費」として処理してゐるのだが……。
要と初めて話した時の印象は『不思議な事を言ふ女だ』と謂ふ物だつた。
「私、本名は芙蓉と申しますの。でも其れぢや不要、要ら無いみたいぢや御座いません? ですから『不要では無く必要』と謂ふ意味で御店では要と名乗る事にしましたの。以後宜しく御見知りおき下さいましね?」
然う挨拶して微笑んだ要の口元から見える歯が綺麗だつたので、「綺麗な歯だね……」と馬鹿みたいな返事をして仕舞つた。『もう少し気の利いた科白を言へば良かつた』と後悔したが、要は其んな事は全く気にし無い様子で言葉を続けた。
「小学生の頃二回、歯で表彰されましたわ。虫歯が一本も無くて歯周炎も歯肉炎も無ければ表彰されるんですの。でも級友達からは不興を買ひましたわ。『歯磨きして無い癖に!』って」
「誰が歯磨きをしてるとかして無いなんて判るの?」
私は素朴な疑問を口にした。
「エエ、私の通つてゐた小学校では歯磨き運動と謂ふ物が盛んで、給食後には歯磨きをすると謂ふ指導が御座いましたの。でも私は給食後の歯磨きはしてをりませんでした」
「どうして?」と、至極当然の疑問を口にした。
「だつて、歯刷毛は教室の後ろに無防備に掛けて置かなければ為りませんでしたものですから。何時誰に何んな悍ましい悪戯をされてゐるかも知れませんもの」
「例へば?」
悍ましい悪戯と謂ふ意味が解ら無かつたのだ。
「私の歯刷毛が床に擦り付けられてゐるかも知れませんし、便器の水溜まりの中に浸けてから戻されてゐるかも知れませんわ。私、級友達からは憎悪されてをりましたものですから」
要は淡々と語つた。
「『憎悪』って随分強い言葉を使ふんだね。其んなに君が憎まれるのつて何故だい?」
「其れは、私が宿題もし無い癖に試験の点数が良かつたからですわ……」
「何故宿題をし無かつたの?」
要の言ふ事は謎だらけだつた。
「父が私に課した教育方針で、宿題も予習も復習も一切禁止されてをりましたの。ですから私は宿題をする事が許されず、先生方からは嫌はれ級友達からは軽蔑されてをりました」
要は少し丈悲し気に言つた。
「其れは妙な教育方針だネ」
私は要を気の毒にも思つたし、其んな教育方針は奇妙だと思つたので率直な感想を口にした。
「エエ、全く同感です。御陰で『宿題もし無い癖に僕、私より成績が良いなんて許せ無い!』と憎まれました。エエ、殆どの級友達は私より成績が悪かつたものですから」
現代では銀座でも滅多に聞く事の無い山の手言葉で要は話した。何処迄本当の話なのかと思う位不条理な話だつたが、親しく為るに連れ彼女の言つてゐる事は本当の事なのだと解つて来た。要は何より嘘を吐く事を嫌う正直者だつたのだ。要は子供の頃から心の痛みを知つてゐる。だから人の心の痛みも解るのだ。私が何も言は無くても慈悲深き聖母のやうに全てを理解し、私と謂ふ存在を丸毎暖かく包み込み、優しく癒やしてくれるのだ。
※ゴジラ 昭和の怪獣映画『ゴジラ』の主人公の怪獣ゴジラの事。
※シヨツカー 昭和の戦闘ヒーロー『仮面ライダー』の人類の敵・ショッカーの事。
※デエモン族 昭和の漫画・アニメ『デビルマン』の人類の敵・デーモン族の事。
※輪番倶楽部 作者による当て字。
※保養命泉 作者による当て字。
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