『アール・ヌーヴォー』と『シェヘラザード』

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『アール・ヌーヴォー』と『シェヘラザード』

 並木通りに面した()()()()()()一階にある『アール・ヌーヴォー』の流麗な彫刻が施された木製の扉を開けると、馴染みの黒服が恭しく出迎へた。 「ゐらつしやいませ、松山様。御待ちしてをりました」 「ヤア、今晩は。もう御客さん入つてる?」 「イエ、松山様が一番乗りです」 「アア、()うなの」  店内に一歩入つた丈で暖かく、ふんわりと漂ふ清々しき大白百合(カサブランカ)の香りも相俟つて一気に緊張が緩む。私は外套(コート)襟巻(マフラー)と鞄を()()()()に預けた。 「御案内致します、どうぞ此方へ」  広い客間(フロア)に入ると主任(チーフ)長台(カウンタア)から「ゐらつしやいませ!」と声を上げ、其れを号令のやうに待機してゐた接待員(ホステス)達が一斉に立ち上がり、私に向かつて深々と御辞儀をする。店内の黒服達も同様、私に向かつて深々と御辞儀をした。  此処『アール・ヌーヴォー』は大箱の倶楽部(クラブ)で、絨毯は乳白色系緑(オパアルグリーン)()()()と建具や木製品は明るい茶色(ブラウン)配色(コーデイネイト)されてゐる。店内は十九世紀末から二十世紀初頭まで欧州(ヨーロツパ)を席巻した新芸術(アール・ヌーヴォー)調で統一され、注視点(フオーカルポイント)と成つてゐる(オーク)材の飾り棚には、植物を思はせる流れるやうな曲線が特徴的な彫刻が施されてゐる。勿論其の中には、伊太利亜(イタリア)のベネチアン洋杯(グラス)仏蘭西(フランス)のバカラ洋杯(グラス)新芸術(アール・ヌーヴォー)期と其れに続く装飾芸術(アール・デコ)期の硝子(ガラス)工芸家ルネ・ラリツクの洋杯(グラス)等、宝石のやうに美しく価値の有る洋杯(グラス)が磨き抜かれ飾られてゐる。  一点何百万円もするエミール・ガレやドーム兄弟らの手に依る(きのこ)のやうな形状(フオルム)硝子(ガラス)製の洋灯(ラムプ)が店内の彼方(あちら)此方(こちら)に置かれ、何色もの色硝子(ガラス)を通して幻想的な光を放つてゐる。そして乳白色(オフホワイト)の壁では、ミユシヤの精緻な筆使ひに依つて描かれた女神のやうな美女達が夫々(それぞれ)金色の額縁の中に納まり、各々(おのおの)が此方を(じつ)と見詰めてゐたり微笑んでゐたり遥か彼方を見詰めてゐたり恍惚(うつとり)と目を閉ぢてゐたりする。店内中央には白い大型洋琴(グランドピアノ)が置かれ、夜毎(よごと)老練な洋琴(ピアノ)弾きが軽快な仏蘭西流行歌(シヤンソン)や洒落た仏蘭西(フランス)映画の主題(テーマ)曲を奏で、()()()の空間を演出するのだ。  要が主任(チーフ)に連絡してくれてゐるので私の(テーブル)が既に用意されてをり、本の形をした蒸留葡萄酒(ブランデー)(ボトル)が置かれてゐる。誂へたやうに私の掌に※安定調和(しつくり)と馴染む丸き蒸留葡萄酒(ブランデー)洋杯(グラス)と要の御気に入りの一口洋杯(シヨツトグラス)と共に。要は此の(ふくろう)が浮き彫りされたやうに見えるルネ・ラリツクの洋杯(グラス)で※香酒(ジン)を呑むのが好きで、私は其の洋杯(グラス)で美味しさうに香酒(ジン)を呑む要を見るのが好きだ。  だから要の為にシユリヒテ=シユタインヘイガーと謂ふ香酒(ジン)を※(ボトル)(キープ)したのだ。酒精(アルコホル)度数の高き為に凍らぬ此の香酒(ジン)は冷()庫で保存するのだが、(ボトル)(テーブル)に置いておくと(ぬる)く為つて美味しく無く為つて仕舞ふ。其処で気を利かせた主任(チーフ)()()()()()のやうに此の香酒(ジン)(ボトル)を氷に漬けて(テーブル)に置いてくれるやうに為つた。()うすると(テーブル)の上が華やぐので、「何だか()()()()()みたいで素敵ネ」と要が喜んでくれたのを思ひ出す。  私の(テーブル)の上に丈薄紅(ピンク)の薔薇が一輪飾られてゐるのに気が付いた。 「此の薄紅(ピンク)の薔薇は要さんからですヨ」  挨拶しに来た主任(チーフ)が教へてくれた。 「花言葉は『感謝』ださうです。『御食事に誘つて下さつて(とツて)も感謝してる』と云つてましたヨ」  洋杯(グラス)蒸留葡萄酒(ブランデー)を静かに注ぎ乍ら主任(チーフ)が言つた。要の真心に胸が一杯に為つた。  此処『アール・ヌーヴォー』とは別に、私は接待用にもう一軒、銀座でも指折りの高級倶楽部『シェヘラザード』を利用してゐる。其処は『千夜一夜物語(アラビヤンナイト)』を思はせる後宮(ハーレム)のやうな大箱の倶楽部だ。真ツ赤な波斯(ペルシヤ)絨毯、黒天井からは※眼刺(がんし)閃輝(せんき)たる()()()()()()、黒き壁面には金で縁取られし大小様々の鏡、其処(そこ)に妖しく映り込むは蝋燭(キヤンドル)の揺らめく炎、御香の如き不思議な匂ひ、()()()()()()()()()の調べ、肌も(あら)はな民族風衣装で魅せる半裸(ベリー)舞踏(ダンス)シヨウ、肉感的(ゴーヂヤス)(セク)(シイ)接待員(ホステス)達……。  丸で自分が王族か富豪にでも成つて此の世の春を謳歌してゐるやうな気分を味はへるのだが、店を出て自宅に帰り着く頃迄には悉皆(すつかり)虚しく為つて仕舞ふ、()()と謂ふ語が相応しい店だつた。取引先の接待相手は皆一様に大層喜んでくれて、後日会つた際には「夢のやうな一時(ひととき)でした。(また)行きたいものです」と言つてくれるのだが――。  私に取つて魂の安らぐ場所は(ただ)、要のゐる『アール・ヌーヴォー』丈なのだ。 ※安定調和(しつくり)と 作者による当て字。 ※香酒(ジン) 作者による当て字。 ※預瓶(ボトルキープ) 作者による当て字。 ※眼刺閃輝(がんしせんき) 作者による造語。「目を刺すような閃きと輝き・ぎらぎら」の意。
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