9人が本棚に入れています
本棚に追加
『アール・ヌーヴォー』と『シェヘラザード』
並木通りに面した貸店舗用建物一階にある『アール・ヌーヴォー』の流麗な彫刻が施された木製の扉を開けると、馴染みの黒服が恭しく出迎へた。
「ゐらつしやいませ、松山様。御待ちしてをりました」
「ヤア、今晩は。もう御客さん入つてる?」
「イエ、松山様が一番乗りです」
「アア、然うなの」
店内に一歩入つた丈で暖かく、ふんわりと漂ふ清々しき大白百合の香りも相俟つて一気に緊張が緩む。私は外套と襟巻と鞄を荷物預処に預けた。
「御案内致します、どうぞ此方へ」
広い客間に入ると主任が長台から「ゐらつしやいませ!」と声を上げ、其れを号令のやうに待機してゐた接待員達が一斉に立ち上がり、私に向かつて深々と御辞儀をする。店内の黒服達も同様、私に向かつて深々と御辞儀をした。
此処『アール・ヌーヴォー』は大箱の倶楽部で、絨毯は乳白色系緑、長椅子と建具や木製品は明るい茶色で配色されてゐる。店内は十九世紀末から二十世紀初頭まで欧州を席巻した新芸術調で統一され、注視点と成つてゐる楢材の飾り棚には、植物を思はせる流れるやうな曲線が特徴的な彫刻が施されてゐる。勿論其の中には、伊太利亜のベネチアン洋杯や仏蘭西のバカラ洋杯、新芸術期と其れに続く装飾芸術期の硝子工芸家ルネ・ラリツクの洋杯等、宝石のやうに美しく価値の有る洋杯が磨き抜かれ飾られてゐる。
一点何百万円もするエミール・ガレやドーム兄弟らの手に依る蕈のやうな形状の硝子製の洋灯が店内の彼方此方に置かれ、何色もの色硝子を通して幻想的な光を放つてゐる。そして乳白色の壁では、ミユシヤの精緻な筆使ひに依つて描かれた女神のやうな美女達が夫々金色の額縁の中に納まり、各々が此方を凝と見詰めてゐたり微笑んでゐたり遥か彼方を見詰めてゐたり恍惚と目を閉ぢてゐたりする。店内中央には白い大型洋琴が置かれ、夜毎老練な洋琴弾きが軽快な仏蘭西流行歌や洒落た仏蘭西映画の主題曲を奏で、非日常の空間を演出するのだ。
要が主任に連絡してくれてゐるので私の卓が既に用意されてをり、本の形をした蒸留葡萄酒の瓶が置かれてゐる。誂へたやうに私の掌に※安定調和と馴染む丸き蒸留葡萄酒洋杯と要の御気に入りの一口洋杯と共に。要は此の梟が浮き彫りされたやうに見えるルネ・ラリツクの洋杯で※香酒を呑むのが好きで、私は其の洋杯で美味しさうに香酒を呑む要を見るのが好きだ。
だから要の為にシユリヒテ=シユタインヘイガーと謂ふ香酒を※預瓶したのだ。酒精度数の高き為に凍らぬ此の香酒は冷凍庫で保存するのだが、瓶を卓に置いておくと温く為つて美味しく無く為つて仕舞ふ。其処で気を利かせた主任が発泡葡萄酒のやうに此の香酒の瓶を氷に漬けて卓に置いてくれるやうに為つた。斯うすると卓の上が華やぐので、「何だか発泡葡萄酒みたいで素敵ネ」と要が喜んでくれたのを思ひ出す。
私の卓の上に丈薄紅の薔薇が一輪飾られてゐるのに気が付いた。
「此の薄紅の薔薇は要さんからですヨ」
挨拶しに来た主任が教へてくれた。
「花言葉は『感謝』ださうです。『御食事に誘つて下さつて迚も感謝してる』と云つてましたヨ」
洋杯に蒸留葡萄酒を静かに注ぎ乍ら主任が言つた。要の真心に胸が一杯に為つた。
此処『アール・ヌーヴォー』とは別に、私は接待用にもう一軒、銀座でも指折りの高級倶楽部『シェヘラザード』を利用してゐる。其処は『千夜一夜物語』を思はせる後宮のやうな大箱の倶楽部だ。真ツ赤な波斯絨毯、黒天井からは※眼刺閃輝たる豪華吊り洋灯、黒き壁面には金で縁取られし大小様々の鏡、其処に妖しく映り込むは蝋燭の揺らめく炎、御香の如き不思議な匂ひ、異国情緒満点な阿拉伯の調べ、肌も露はな民族風衣装で魅せる半裸舞踏シヨウ、肉感的で妖艶な接待員達……。
丸で自分が王族か富豪にでも成つて此の世の春を謳歌してゐるやうな気分を味はへるのだが、店を出て自宅に帰り着く頃迄には悉皆虚しく為つて仕舞ふ、虚飾と謂ふ語が相応しい店だつた。取引先の接待相手は皆一様に大層喜んでくれて、後日会つた際には「夢のやうな一時でした。復行きたいものです」と言つてくれるのだが――。
私に取つて魂の安らぐ場所は唯、要のゐる『アール・ヌーヴォー』丈なのだ。
※安定調和と 作者による当て字。
※香酒 作者による当て字。
※預瓶 作者による当て字。
※眼刺閃輝 作者による造語。「目を刺すような閃きと輝き・ぎらぎら」の意。
最初のコメントを投稿しよう!