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刃物で肉を割かれるときって、なんとも言えない音がするんだなあ。
最初に抱いた感想は、そんな呑気なものだった。
痛いというよりは熱いに近く、もっと言うのなら、空虚が一番近いだろうか。なにしろ刺されるなんて経験がゼロだから、どういう感覚に当てはめていいのか、体が困惑してぐるぐるとしているようだった。
「キャー! レオちゃんー!!」という悲鳴は、だいぶ遅れて聞こえた。痩せた体は床にたたきつけられたはずだったが、その感覚もない。
はっきりとは見えない視界の中で、マスターが男を殴り飛ばしたのは見えた。素早く押さえつけて「お願いできますか」と老人に告げている。
「わ、私たちも手伝います……!!」
女性客も声を上げてくれ、男はなんとか拘束されたようだ。
マスターの声が近くなる。
「レオ! レオ!」
ああ、そんなに感情的にマスターが俺の名前呼んでくれるなんて。また夢でも見てるのかな。
「――このばかっ!」
――夢で見たのと違う。
ともかくも、悪態がつけるくらいならマスターは無事ということだ。
良かった、と思った瞬間ぶるっと体に震えが走った。いつか感じた、快感の震えとはまったく別物だ。地震みたいに強いそれは、ひどく体の力を奪っていった。
「レオ、レオぉ……」
マスターが泣いている。
オープンしたててお客様がひとりも来なかった日も、翻訳のほうの仕事がたまっちゃって三徹した日も、マスターは泣かなかった。いつでもかっこいいマスターだったのに。
「泣かないでマスター……」
俺はマスターのことが守れて満足なのに。今も楽しいことしか思い出せないくらいなのに。
ある日母猫が根城に戻って来なくなった。どうやら車に轢かれたようだとは、あとになってから知ったことで、そのときは残されたこどもたちだけでみゃーみゃー鳴いていた。
あんまりみゃーみゃー鳴くから人に見つかって、何匹かはそのまま連れて行かれた。
――俺は最後にひとりになっちゃったんだよね。しっぽが不細工に曲がってたから。
ある日、カラスに襲われた。ひとりぼっちで死にかけの仔猫なんて、奴らにとっては絶好の獲物だったから。
もちろん、頑張って逃げたけど、大きな黒い嘴には敵わなかった。頭を突かれて、体の力が全部抜けていく直前で、ふわっと体が浮いた。誰かがてのひらに瀕死の体をすくいあげてくれたのだ。
それがマスターだった。
あんた、その猫飼うことにしたのかい? 他に普通の可愛いのもいたけどねえ――そう商店街の人に言われたときも「かぎしっぽの猫は幸福をひっかけてくるっていいますよ。うちの店にちょうどいいと思って」って言ってくれたこと。
ルナさんが抱っこ嫌いで、うまくお客様に愛想を振りまけなくても、咎めなかったこと。逆に悪戯好きの先輩がお客様のふわふわスカートにじゃれついてしまったら、あとでこっそり謝っていたこと。
ルナさんが卒業したとき、いつもよりちょっと上等なささみをみんなの分用意してくれたこと。
俺が腕の下から頭を入れてパソコン仕事の邪魔をしても、最後には頭をぽんぽんしてくれたこと――
ぶるっと二度目の震えが来た。
それは今度も容赦なく力を奪う。
ああ、俺、あとちょっとしか時間がないみたい。
なんとかしてそれまでにマスターの涙を止めてあげたいけど、ほんとに俺、なんにももってないからなあ。幸福の鍵しっぽ持ちなのに。ごめんね、マスター。
マスターの泣き顔の向こうに、お店の天井が見えた。
そうだ、お店で、俺が出来ることっていったら。
レオは最後の力を振り絞って、ころん、と腹を出した。
「にゃあ、」
マスター、泣かないで。お腹吸う?
マスターは大きく目を見開いた。
零れ落ちた涙が、傷ついたレオの腹の毛を濡らす。だけど次の瞬間、いつも鋭い目がくしゅっと細められ――
「ほんと、ばかだなおまえ、こんなときまで」
マスターは泣きながら笑ってくれる。
それからもっとひどい泣き顔に変わる前に、レオは意識を手放した。
お客さんが警察に電話してくれているのが、遠のく意識の向こうで聞こえる。
「もしもし、あの、人が、刺されて……! あの、猫も! はい、商店街のはずれの、トゥインクル・トゥインクル・リトルっていう、保護猫カフェです――」
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