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ルナが卒業して数日。季節は春から初夏に向かおうとしている。店の店頭に植えられた木香薔薇も白い花を咲かせ始めていた。
店には日常が戻っていた。ルナの常連だった客が離れてしまうかもという心配も杞憂に終わり、それぞれのお気に入りを見つけてまた通ってきてくれている。それでもときどきルナの卒業を知らない客がやってきたりして、そんなときはふと淋しさと羨望が胸をよぎる。
ルナさんはあの人の特別にしてもらったんだなあ。
正直羨ましい。とてもとても羨ましい。
俺もマスターの特別になりたいなあ。
指名がない時間はずっとそればかり考えてしまう。
そんなわけで今日も「一日一じゃれ」だ。
閉店後、レオはまたバックヤードで作業するマスターの元を訪れた。とにかく特別になるためには地道な努力あるのみ! という、作戦ともいえない作戦だ。
今日も腕と机の隙間から、ずぼっと顔を出す。
「またおまえか……」
「また俺でした」
ぐりぐりと腕に頭を擦りつける。マスターは珍しくすぐにそれを払ったりせず、好きにさせてくれた。
「なんだ? ルナがいなくなって淋しいのか?」
「いやそれは全然」
どうしてそういう解釈になるのだろう。つれない上にこんなに鈍感とは、いっそわざとなのかと思ってしまう。
ぐぬぬと臍を噛んでいると、マスターの目が鋭く光った。
「レオ。おまえ、爪が伸びてるな」
「ひっ、す、すみません」
こういう店なのだから、爪はいつも綺麗にしておけとマスターには言われていた。もちろんマスターの言いつけだからレオはちゃんと従っていたのだが、ここ数日は暇さえあれば「ルナさんいいなー」と考えているものだから、うっかりしていた。
「しょうがないな……」
マスターは席を立ち、サイドボードを探って戻る。
「よっと」
掛け声と同時にレオの脇の下に背中側から手を差し入れると、ぐっと持ち上げた。
「は!?」
気がついたときには、レオの体はすっぽりとマスターの腕の中だ。
「こら、暴れるな」
いやいやだって、こんな、突然。そりゃあマスターの特別になりたいなって思っていたけど、まだ心の準備っていうか……ッ! あっ、もちろん準備が出来てなくても無理矢理奪っていただいても全然やぶさかではないんですけども!?
戸惑いと欲望が混然一体となって、あまり容量の大きくない頭をぱんぱんにするレオに、マスターは宣った。
「爪を切ってやる。今日は特別な」
「あ、は、はいー……お願いします」
なんだ、爪かあ……
ほっとしたような、残念なような。相反する気持ちでふっと気が抜けたとき、マスターの顎が肩口に乗せられた。
ふぁっ……!?
近い。というか、触れられている。
また暴れないようにということなのだろう。マスター的にはこの行為に深い意味などないとわかっているが、どうしたって意識してしまう。
その体温。自分とは違う、逞しい体の作り。料理人だから、香水をつけているわけもないのに、レオには香る大人の男の人の匂い――
「こら、もぞもぞするな。くすぐったい」
「は、はいい」
そんなこと言ったって、こっちはくすぐったいどころの騒ぎじゃない。とはいえ、嬉しいか嬉しくないかでいったら圧倒的に前者だ。ルナがいなくなって淋しがっていると思われて、結果的には得をしたのだろうか。
ありがとうルナさん……!
初めて先輩に後輩らしく感謝した。
マスターはレオが暴れるのをやめるのを見届けると、指先を手に取った。確認するように指の先、爪の辺りを撫でてくる。危なくないよう確かめているだけなのはわかっているが、神経の集まったその辺りを刺激されるのは、ぞくぞくするものだった。
「切るぞ」
パチ、という音がして、爪に刃が入る。少し痛いような、怖いような、でももっと触れていて欲しいような、不思議な感覚があった。
トゥインクル・トゥインクル・リトルは、商店街から少し路地を入った場所にある。周りは民家だから、深夜になれば静寂を丹念に練り上げたみたいに静かだ。
その静かな空間に、パチン、と微かな音が響く。
刃を入れる前と入れた後、マスターはレオの指を注意深く撫で、
「……痛くないか?」
と訊ねてくる。囁きは直接耳朶をくすぐる位置にあって、レオは「ひゃい」と間抜けな返事をすることしかできなかった。
マスターの胸に触れている背中が、じんじん熱い。心臓はせわしなく打って今にも皮膚を突き破って飛び出しそうなのに、頭はぼんやりとして、まぶたはニョッキのチーズみたいにとろんとしてしまう。
一通り爪を切り終えると、マスターは一本一本丁寧にやすりをかけてくれた。まるで王様みたいな待遇に、チーズはさらにとろんとして、うとうとしてしまう。
マスターがなにか言ったのも、眠りのヴェールを一枚隔てた向こうにあって、よく聞き取れなかった。
「これでよし……なんだ、寝てるのか?」
だからそんな言葉に続いてふっと耳に息を吹きかけられたのは、まったくの不意打ちだ。
「ひゃっ!」
心臓が、ときめきとは別の動悸をばくばく打つ。抱きかかえられていた椅子から滑り落ちたとき、レオはマスターの顔が苦痛に歪むのを見た。
「っつ……」
爪切りを持つ手指に血がにじんでいる。
「ご、ごめんマスター。俺、ひっかいちゃった……!?」
「ああ、悪い悪い。俺が驚かせた。やすりも甘かったな」
マスターは逆にそう謝ってくれるが、それでは気が済まない。みんなが大好きな、マスターの料理を生み出す手に傷をつけてしまった。
どうしよう。俺、どうしよう――
「消毒しとくから、だいじょう――」
椅子から立ち上がりかけるマスターの手にレオはすがりつき、血のにじむ指を咥えていた。
瞬間、ちりっと苦みのようなものを感じた。血ってこんな味だったっけ? と思うが、そもそも人の血を舐めることもそうない。
美味しくはないかなあ、と呑気に考える。
でも、マスターの味だ。
レオは傷ついたマスターの指を両手で支えるように持ち、舌を這わせた。
ひっかいただけだから、たぶんもう血は止まっているのだろう。でも、口に含むと、マスターの指はただ見ているだけで感じるより太くて、節々がごつごつしていた。
大人の、男のひと、だ。
肉の下の骨格の存在を感じるのがなぜか心地よく、レオはマスターの指をしゃぶった。傷口を探るふりで舌先を使い、執拗に。
「レオ、」
咎める響きで名前を呼ばれても、無視した。ざらりとした舌でマスターの指を感じるのを、止められない。
俺、おかしいのかな。すっごくふわふわして、変な気分。
マスターは?
ちらりと見上げると、その一瞬の隙で腕を振り払われてしまった。
「――もういいって。逆に痛い」
でもありがとな、とおでこをつん、とされる。気安い態度はいつもと変わらない。
もちろんそんな態度の端々にだってマスターのやさしさを感じて嬉しいことは嬉しいのだが、自分が感じていたもの、本当に求めていたものとはなにか違う気がする。自分でもはっきりなにかわからない、不可解な興奮が体を包んでいた。
大人の男の人であるマスターなら、このつかみどころのない気持ちのことも知ってるんだろうか。
レオがひとりでざわめく気持ちを持て余しているなんて思いもしないのか、マスターは消毒液を探している。呟きが聞こえた。
「あんまり俺にばっかり懐くなよ。……お前たちはいつかここを卒業するんだから」
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