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「マスター、元気ないね。また寝不足? 大丈夫? お腹吸う?」
「……道っぱたで腹を出すんじゃない、おまえは」
ため息と共に深い渋面になったマスターは、それから諦めたようにレオの腹をぽんぽん、と叩く。言葉の調子とは裏腹に、ちゃんと手心が加えられている。だからこそレオも無防備になれる。
ここは東京のとある下町だ。
狭い道幅の両側に、酒屋、おでん種屋、甘味処など、昔ながらの店が肩を寄せ合うようにして並んでいる商店街を抜け、レオとマスターは猫稲荷に向かっている最中だった。
江戸の昔、老婆がその貧しさゆえに愛猫を手放さなければいけなくなった。
するとその晩、夢枕に飼い猫が立ち、こう告げたという。
『私の姿を人形にして売ってください』
言われた通り老婆が猫の人形を作って土産物として売り出すと、これが大当たり。
しかし今度は人手が足りなくなった。とはいえ、雇うほどの余裕はない。
するとまたしても飼い猫が夢枕に立った。
『私をお伊勢様に行かせてください』
不思議なこともあるものだと思いながら、老婆は人形のおかげで少しばかりたまった金を猫の首にくくりつけ、猫を送り出してやった。
なんとか伊勢にたどり着いた猫は、こう神様に訴えた。
『長者の家からたたき出された私を拾ってくれたのは、ひとりの身寄りのない娘でした。彼女は懸命に働いて働いて、今日まで私を生かしてくれました。私も知恵を絞ってなんとか暮らしも少しは楽になりましたが、今のままではとても恩を返しきれたとはいえません。どうかお力をお貸しください』
感心なことよ、と猫の願いを聞き入れた伊勢の神様は、猫を人間の姿に変えてくれたという。
猫は江戸に戻ると、老婆を助けてよく働いた。暮らし向きの楽になったはふたりはいつまでも一緒に暮らしました――猫稲荷は、そんなふたりを祀ったといわれる神社だ。
猫なのか狐なのかという話だが、正直ご利益さえあれば人はどちらでもいいのだろう。商店街もこの神社と共に栄えた門前町が元になっているから、猫をモチーフにした商品を扱う店も多い。
近年の昭和レトロブームとやらで、休日には近隣から観光客が濁流のように集まるが、今は平日の昼前とあって、人影はまばらだった。
苦笑していたマスターが不意に真剣な顔になり、レオの頬を両手で包み込んだ。
こ、これは、やっと俺の気持ちがマスターに通じたやつ……!?
『俺はバカな男だな。こんなに俺を思ってくれる奴がすぐそばにいたのに、今までずっと気づかなかったなんて……』
みたいな展開? みたいな展開―!?
ちなみに、レオの妄想の中のマスターはいつも薔薇と謎のきらきらを背負っている。
妄想をたくましくさせるレオの思惑に反し、マスターは言った。
「やっぱり頭に後遺症でもあるのかな……」
「まじめな顔で酷いこと言う」
妄想のきらきらを思えば、そう酷くもない。
「だいたいなんでおまえはいつもついてくるんだ。まだみんな寝てるのに」
「そりゃマスターとおでかけしたいからですよ!」
「おまえがくっついてくると目立つんだよ……」
腹をしまい、しょんぼりとマスターのあとをついていく。午前中から酒屋の店頭に出された簡易椅子(ビールケースを逆さに置いたやつ)に腰かけて一杯ひっかけているおじさんに声をかけられた。
「おっ、レオちゃん今日も男前だな」
顔には出さないけれど、マスターの放つ気配が「ほらな」と語っている。
「マスター、あんたもどうだい」
「有難うございます。せっかくですが、これから仕込みがあるので」
「そうか、仕事熱心だねえ。おーい、かあさん!」
お客様の増える時間帯に向けて助走段階の静かな通りに不似合いに大きなおじさんの声にたじろいでいると、酒屋に隣接した八百屋さんの奥から、年季の入ったエプロン姿のおかみさんがやってきた。
「なんです、大きな声出して……、あら、レオちゃん。マスターも、こんにちは。そうだ、ちょっと待っててね」
おかみさんは一旦奥に引っ込む。やがていろんなものを詰め込まれてぽこぽこと膨らんだビニール袋を手に戻ってきた。
「これ、よかったら持ってって。売れ残りで悪いんだけど」
「いえ、いつもありがとうございます」
そんな店先でのやりとりに気がついたのだろう。反対側のお隣さん、おでん種屋さんも顔を出した。
「レオちゃん、今日も可愛いねー。あらマスターもこんにちは。あ、はんぺん持ってく?」
その隣のおせんべい屋さん、かりんとう屋さんとぞくぞく出てきてはまずレオに声をかけ、ついでにマスターにも声をかける。
商店街を抜けて、朱色の鳥居をくぐるころには、黒の厨房着に黒のタブリエでびしっと決めたマスターの両手は、それぞれの店からの貢ぎ物でいっぱいになってしまった。
「……ほら、こうなるだろ……」
「大丈夫、ビニール袋からネギとニラが顔出してても、マスターはねこねこ♡銀座商店街一かっこいいから……!」
ちなみに〈ねこねこ♡銀座商店街〉のロゴは丸ゴシックのピンク、ハート部分は二匹の猫の尻尾で表現されている。
必死のフォローにマスターは深くため息をついて小銭を取り出すと、いつも神社にいる青年に頭を下げた。
時代と共にだんだんと切り売りされて(と、マスターと八百屋のおじさんが話しているのを以前聞いた)、今や猫稲荷の境内はそう広くはない。それでもこの青年が毎日隅々まで掃除しているおかげで、境内には有名神社にも劣らない清々しい空気が満ちている。
止められている手水舎も多い中、猫を象った注ぎ口からこんこんと注がれる水は途絶えることがなく、水盤の白御影の斑点ひとつひとつが見て取れるほど澄んでいた。
地元の人に愛され、手をかけられている。居心地の良いこの場所がレオは好きだった。
白い上着に浅黄色の袴の青年は、レオにも箒片手に微笑みかけてくる。レオがぺこっと頭を下げている間に、マスターはからからと鈴を鳴らす。小さな呟きが混ざった。
「……まあ、闇雲によそ者扱いされるよりはずっといいけどな」
マスターがこの商店街のはずれに店を出したのは、昨年のこと。レオは今年に入ってからマスターに拾われ、以来従業員として店に出ている。自分にはちょっとかっこよすぎるレオという仮の名も、マスターがつけてくれた。
〈そういう〉店には珍しく、本格料理が売りの店の名は〈トゥインクル・トゥインクル・リトル〉。
きらきらと光る小さな、という意味らしい。
『人が心のよりどころにするものって、人それぞれじゃないですか。だからそのあとに続く特別なにかは、お客様ご自身で決めていただければ……みたいな気持ちでつけました』とマスターが雑誌のインタビューに答えているのを聞いて、レオは「マスターかっこいい!」と思った。正直、マスターのすることならなんでもいいのだが。
切れ長の眼光鋭く、どうかすると怖いという印象を人に与えがちなマスターだが、根っこのところはロマンチストなのだ。開店前にはこうして毎日神社にお参りにくる信心深さもある。
もっともお参りにくるのは、店の経営がなかなか大変だというのっぴきならない理由もあった。
店にはレオのような身寄りのないメンバーが他にも多数在籍している。この辺りでは珍しい店だから、たまに雑誌に取り上げてもらって賑わうこともあるものの、売り上げはまだまだ安定しているとは言い難かった。
だからマスターは料理の修行のため渡った外国で覚えた語学を活用して、たまに翻訳の仕事も引き受けている。当然店を閉めてからの作業だ。いつも目の下にクマを飼い、寝不足気味な様子なのはそういうわけだった。
そんなマスターが少しでも楽になるようにレオはお参りにも付き合いたいし、それでちょっと笑ってくれるなら、腹くらいいくらでも出したいのだった。まあ、道ばたが色々な意味で危ないのは確かなので、少しは自重しようとも思うけど。
でも俺、他になんにもないからなあ。
親兄弟とは、いつの間にかばらばらになっていた。学校だって行っていない。その日食べるものにも困って流れ着いたのがこの商店街で、運よくマスターに拾ってもらえ、おかげで商店街の皆さんにも可愛がってもらえる。
自分ではみっともない見栄えだと思っているのだが、ああしてみんな可愛いとかかっこいいとか言ってくれるのは、単に商売柄お客様を持ち上げる習慣があるだけだったとしても、やっぱり嬉しい。マスターがいつまでもここでお店を出来ればいいなと思う。
せめてよーくお祈りしておこう……そうだ、
ふと思い立ち、レオは神社の片隅に走る。いつの頃からこの神社を見守っているのか、大きな桜の木の下に軸ごと落ちた花を拾うと、お賽銭箱の前の階段にそっと置いた。
「落ち着きのない奴だな」――そんな顔をしてレオの様子を眺めていたマスターはやがて、クマに縁どられた目をしばたかせた。
「もしかしてそれ、お供え物のつもりか?」
「うん。ここに祀られてるのは猫と、飼い主のおばあさんでしょ? 女の人はお花が好きだから」
「……おまえはほんとにホスト向きだな」
マスターが目を細めてふんわり笑う。
うっわ、超レア……!
賽銭を持っていないから、せめて、と思いついたことをしたまでだったのに、なんだかこそばゆくなってしまう。
「へへ……」
ここのご利益が商売繁盛であることはもちろん知ってる。けれどもレオはいつもひっそりちゃっかりこうお願いもしていた。
「いつか俺が、マスターの特別になれますように」
店にはレオと同じように店長に拾われたり、よそからの紹介でやってくるメンバーがたくさん所属している。
――儲かってるわけじゃないのに断れないのは、マスターの過去が関係してるんだよね、たぶん。
メンバーは基本行くところがないから、店の上、マスター宅の一室で雑魚寝だ。そんな暮らしをしていれば、自然と先輩たちからマスターに関するうわさ話も聞かされる。
なんでもマスターはその昔、ミシュランにも乗るようなレストランのシェフだったそうだ。専門学校には通わず、バイトで貯めたお金で直接海外に渡って名店の戸を叩く。紹介状もなく、まさに武者修行だ。
そこで得た給料を元にまた別の国へという生活をくり返していたところを旅行中の有名レストランオーナーに惚れこまれ、日本に戻った。
と、ここまではいい。
そのうち、突然現れてシェフの座に就いた彼を快く思わず、態度にもあらわにする一派が現れた。
それでもマスターは堪えていた。厨房内のごたごたなど、お客様には関係のないことだからだ。
そしてある日のこと。度重なる嫌がらせにも我慢して最高の料理を提供するマスターに、オーナーは言った。
『うちの娘と結婚しないか。そしたら君はゆくゆくはオーナーシェフだ。悪い話ではないだろう?』
オーナーは厨房内の確執にうすうす勘づいていたらしい。とはいえマスターの作る料理の評判は上々で、集客力も伸びていた。手放すよりは立場を与えて擁護しようと思ったのだろうが、そううまくはいかなかった。
マスターが男の人が好きな男の人、だったからだ。
当然その結婚話は破談になり、そんな好条件を断った理由もいつしか店中の人間の知るところとなった。
『きっと吹聴したのはオーナー本人だな。娘を袖にされてむかついたんだろ。人間なんて勝手なもんだ』
と先輩が意地悪な顔で言ったときには「そんな」と思ったが、同時に「そうなんだろうな」とも思った。
世の中が本当にいい人ばっかりだったら、俺たちみたいなのもいないもんね。
ともかく、突然シェフの座に就いた上に、誰もが羨むオーナーの娘との結婚話を蹴ったことで、嫌がらせは度を増した。ゲイに対する偏見からウェイターまでそれは飛び火して、お客様に提供する料理に細工されるに至って、オーナーは店を辞めた。
自分が居場所を不当に奪われたから、居場所のないメンバーを放っておけないのだと思う。
もちろんレオもそんなマスターが好きで――大好きで、叶うなら他のメンバーよりも大好きになってもらいたいと思っている。
行く当てもない俺を拾ってくれた。
ご飯を食べさせてくれた。
マスターが拾ってくれたときレオはちょっとしたトラブルで怪我をしていたのだが、病院にだって連れていってくれた。
俺、人にあんなにやさしくされたの、初めてだった――
神様お願いします。お店を繁盛させるついででいいので……ほんとはついでじゃないほうがいいけど……むしろ他の人のお願い事より優先させてほしいけど……
落ちていた桜、それも元々神社の境内にあったものひとつの対価としては若干図々しい念を必死で送る。
「行くぞ」
レオの願いなど知りもしないマスターはあっさり踵を返し、レオを促した。
つ、つれない。
店に戻ればメンバーがいる。つまり開店前のこの時間は、レオだけがマスターを独占できる特別な時間なのだが、マスターのほうではそんなことは微塵も思わないらしい。「ちょっと寄り道してくか」なんて、一回も言われたことがなかった。もちろん今日はねこねこ♡銀座商店街のビニール袋から貰い物のねぎとにらがにょっきり顔を出しているという事情もあろうが、身軽な日にも、一度もだ。
どうもマスターは〈メンバーによって態度に差が出ることがあってはならない〉と自分で厳しく決めているようだった。
『俺たちそんなの気にしないのにな。子供じゃないんだからさ。お互い仕事なんだし』
マスターが店を始めたきっかけを教えてくれた先輩はそういう。店のメンバーは割とドライに割り切っていて、トゥインクル・トゥインクル・リトルは次の居場所を見つけるまでのつなぎだと思っている者が多いようだった。
でもレオは知っている。雑魚寝に慣れなくて、ひとりだけ開店よりだいぶ早く起きだしてしまった日、マスターが卒業したメンバーの受け入れ先に電話していたこと。
性格や、好きなもの嫌いなもの、ご機嫌の取り方まで。先方には見えないだろうに、最後には深々と頭を下げて電話を終えていた。
つれなくされたって、俺は知ってるんだ。マスターがほんとはめちゃくちゃやさしいってこと。
最後にぺこりと頭を下げて境内を後にする。小走りに駆けて追いついた鳥居の上で、ばささっと羽音がした。カラスだ。神社に人が来たのを見て、お供え物を狙いに来たのだろう。
同じことを考えたのか、マスターが感心した様子で呟く。
「カラスはほんとに頭がいいな」
「俺は嫌い。態度でかいし、くちばしぶっとくて怖い」
訳あってカラスにはいい思い出がない。きっと睨みつけてやるが、カラスのほうでも太い首をぐりんと回してこちらを見てきた。ような気がする。
うう、
思わず情けなくたじろいだとき、視界が突然黒く変わった。
「帰るぞ」
マスターがさりげなくレオの前に出て、カラスからさえぎってくれたのだ。
笑うわけでも、からかうわけでもなく、こういうことをすっとしてくれる。
やっぱりマスターはかっこいいなあ。
そのかっこいいマスターが「うわ、」と小さく声を上げるから、なにかと思ったら、タブリエの結び目の辺りにぴかぴか光るものがくっついていた。カナブンだ。
「ちょ……ま、これ、おい……」
貰い物で両手がふさがっているから、咄嗟に振り払えないらしい。レオが手でちょいちょいとつついてやると、カナブンはあっさり飛び立っていった。
「カラスは平気なのに虫は駄目なんだ」
「カラスは駄目なのに虫は平気なのか」
ほんのわずかな虫との邂逅で、マスターが焦燥している様子がおかしい。
かっこ悪いとは思わなかった。むしろ他のメンバーが知らない面を自分だけが見てしまったようで、なんだか嬉しい。「行くぞ」とあらためて言う声も、心なしか普段は見せない照れがにじんでいるような。
マスターはやさしい。マスターはかっこいい。そのうえ可愛い。
マスター大好き。
マスターの「きらきら光るちいさな特別」に、俺がいつかなれたらいいのにな。
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