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「レオ。レーオー。ったく、どこいった……」 「マースタ!」 「おまえ、どこい……のわ!」  仕入れた新鮮野菜のかごを持ち上げて、マスターらしからぬ滑稽なステップを踏むのは、レオが放した蝉が、ぶぶぶ……と店のポーチを豪快に転げまわっているからだ。  夏の日差しが濃い影を作る庇の外は、迫ってくるほどの緑。空には爪を立てたらはじっこからぺりぺり剥がせそうなほどくっきり白い入道雲が張りついている。  ここは都心から二時間ほどの山間だ。  夏の日差しを反射してつやつや光る木立を抜けたら、その先には海も見える。  事件後、マスターは男を訴えなかった。どうして、と周りから問われたときも「牛刀、綺麗に手入れしてあったんで……あいつはまだ料理人なんで」と言うだけだった。 「お人好し過ぎる! あんたほんと人間向いてねーな!」と先輩たちは今でもにゃあにゃあ怒っているけれど、レオはマスターらしいなと思う。先輩たちはレオがそうやってへらへらしているのも気に入らないと言うのだが。 「おまえ、その牛刀で腹掻っ捌かれたんだぞ!?」 「そーだそーだ。たまたま無事だったからいいようなものの!」 「まあまあ、先輩たち、落ち着いて……お腹、吸います?」 「いらねえ!!」 「しまっとけ!!」  口々に言われ、レオはまたふにゃっと笑う。  まあ、無事ではなかったけどね。  実を言うとレオはあのとき確かに死んだ。  詳しいことは人間じゃないからわからないけれど、男の凶刃は内臓まで傷つけていて、病院に運ばれたとき、もう体は冷たくなっていた。  大好きなマスターを守れたのだから、短いけれどいい人生、いや猫生だったな……などと静かにどこかに落ちていったとき、呼び戻されたのだ。 『レオ』  マスターじゃない、別の誰かの声に。  商店街のひとはだいたい「レオちゃん」と呼ぶから、彼らでもない。  男の人だけど、どこか鈴の音みたいな、現実感のない声――ひとりだけ、思い当たる節がある。  ――神社のひと! 『はい』  不思議なことに、そう応じられると、いつの間にか目の前に彼の姿があった。目の前、と言いながら、どちらが前で後ろなのか、上なのか下なのかわからない、奇妙な浮遊感を抱いたまま、レオは訊ねた。  ――良かった。俺はもう死んじゃうけど、最後にあの夜のことが夢だったかどうか訊きたかったんです! 『あの夜?』  ――お守りをもらって帰ったら、俺、いつもの俺じゃない、にんげんの体になって、その……  言い淀む。考えてみれば、たとえただの夢だったとしてもあれを誰かに話すのは、大変恥ずかしいのではなかろうか。 『ああ』  青年は笑う。いつもつかみどころがないのに、にやりとしたそれは妙に人間臭かった。 『存分に可愛がってもらえましたか』  ――にゃー!  もう体はぴくりとも動かないけれど、もしも動いたなら恥ずかしさで顔を覆っていたと思う。所謂「ごめん寝」の姿勢で。  ――あ、あれ、どういう仕組みなんですかっ。 『仕組みもなにも……我々は元々長く生きていれば人型になれるじゃないですか。猫又になるんですよ。あなたはまだ年季が足りないけれど、いつもお参りしてくれるお礼にその能力を発動するお手伝いをしただけです。一時的にね』  人型になれる?  俺たちが?  ――は、初耳なんですけど。  ご近所の今夜のおかずから、どこの家で子供が生まれた、どこの奥さんが不倫しているという話までいつの間にか仕入れてくる先輩猫たちからも、そんな話は聞いたことがなかった。そう告げると、青年の顔がわずかに曇る。 『……あなたがたのお店にくるのは、たいていつらい思いをした方たちでしたね。今は親猫と一緒に暮らせることもほとんどないと言っていいから、大事な申し送りが途絶えてしまう。野良ならばなおさら、長く生きるということ自体が難しい』  そういえばお店のお客さんが言っていた。トゥインクル・トゥインクル・リトルのような店に引き取られるのは幸福なことで、野良はたいてい三、四年しか生きられないのだと。  ――実際俺も、マスターが助けてくれなかったらあのままカラスに食べられちゃっただろうしなあ。  マスター、と口にしただけできゅうううっと胸が締めつけられる。もう、生きるための鼓動さえ刻んでいないそこが。  長生きしたかったな。  長生きして、人型になって、ちゃんとマスターの恋人になりたかった。  ううん、恋人になれなくてもそばにいたかった。人型になったら、自分で爪を切ることさえできない手だってきっと料理のお手伝いくらいは出来るようになって、マスターが眠い目をこすりながらひとり頑張らなくてもいいようにできたかもしれないのに。  猫の手、貸してあげたかったなあ……  しんみりしていると、青年が促す。やけにさばさばした調子で。 『さ、じゃあそろそろ行きましょうか。私もはやく彼女の元に戻りたいし。あ、あなたがたが来なくて心配だから、行って見て来なさいって言ったのは彼女ですよ。私の主人は最高でしょう』  ふふん、と鼻を鳴らす。なんだか随分最初の印象と違う。それに後半、ほぼ惚気のような。  ――行くって、どこに? 俺、もう死んじゃうんでしょう……?  訊ねると、青年は大げさにため息をついた。あ、これ、ほんとにもうさっさと帰りたいやつだ。 『そんなことも知らないんですか、まったく、最近の若い猫は』  え、老害? これもしやお客様が言ってた老害?  戸惑うレオを青年は見つめる。綺麗なアーモンド形の瞳に吸い込まれそうになる。 『なるほど、あなたはまだひとつめの命なんですね。――こわっぱじゃの』  ひとつめとは。  てか「じゃの」って。  死にそう、というだけでいっぱいいっぱいなのに、なんだかもう情報過多だ。  文字通り目をぐるぐるさせるレオに、神社の人は不敵に微笑った。 『いいですか、我々猫は古来より九つ命を持っていて――簡単には死にません。これしきのことではね』  次に気がついたとき、レオは病院の清潔なケージの中にいた。 「内臓まで傷がついていて、正直危うい状況だったんですが……驚異的な回復力ですよ。しばらく入院して、様子を見ましょう。予断を許さないことに変わりはないですが、きっと大丈夫」  カラスのときも助けてくれた、動物病院の先生の声だ。 「そうですか」  応じるマスターの声はいつも通りの落ち着いたいい声で――と思った瞬間、看護師さんの「だ、大丈夫ですか!?」という声が重なった。起き出して様子を見ようにも体が動かない。ただ、随分下のほうから深い深い安堵のため息が聞こえる。 「あいつ、あんなちっさい体で頑張ったんですね……」  看護師さんの嗚咽が重なった。
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