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「元気ないの? お腹吸う?」 「ありがとー。レオちゃんと会うとほんと癒されるー」 「わーい。俺もお客様が笑ってくれるとほっとするよー」  いつもそう思ってるし、今日は特に。  神社から戻ると、マスターはいつものように店を開けた。心配で、かといって出来ることもなく、せめてと厨房の中までついていこうとしたら摘まみだされた。 「マスター!」 「ただの間違い電話だ。鬱陶しいから営業時間中はずっと留守電にしとけばそれでいいだろ」 「みんなには内緒だぞ」と特製チキンを口に放り込まれた。「みんなには内緒」の甘美な響きにうっとりしてるうちにドアは固く閉ざされて、二度と開くことはなかった。  ああああ俺のばか。  自覚はあったが、ちょろすぎだ。  とはいえ、開店以降留守電にした電話は、今のところ鳴る様子はなかった。メンバーがついているのもそれぞれ常連客で、特にいつもと変わった様子はない。  やっぱりただ偶然間違い電話が重なっただけだったのかな。  ドアが開き、新しい客が入って来る。あのおしゃれな老人だ。落ち着いて品のいいお客様の顔を見ると、レオのほうがほっとしてしまう。飛び上がるようにして彼の元へ向かった。 「いらっしゃいませ~!」 「はは。熱烈歓迎だね。どうかしたのかい」 「ど、どうもしませんけどっ」  いけない。はしゃぎすぎても情緒不安がお客様に伝わってしまうものらしい。店に出ている以上はちゃんとお勤めしようと思うのに、レオにはまだまだ難しかった。  マスターは昔のお店で嫌がらせされてたのに、ちゃんといつもと変わらない料理を作ってたんだもんなあ。凄いなあ。  あらためてそう思う。今回の件が本当に嫌がらせだったとしても、マスターはきっとひとりで解決するつもりなんだろう。  レオ自身、そのほうが早いだろうと思ってしまうのがまたつらい。 「レオくん?」 「あ、す、すみません。今日もいっぱい食べてってくださいね。俺、ちょっと」  いったんトイレにでも行って、気持ちを切り替えてこよう。バックヤードに向かったとき、店の電話が鳴るのが聞こえた。  レオを安心させるための方便ではなく、本当に留守電にしてあったようだ。三コール程度で電話はすぐに切り替わる。  内蔵されている合成の音声が電話に出られない旨を告げ始めた瞬間、電話の主は通話を切った。 ぶつ、という音は悪意そのものが凝り固まったように耳の中に残る。 ぞわりと感じた悪寒が去らないうち、店のドアが乱暴に開けられた。  日頃お客様もメンバーもそんなふうにドアを開けたりしない。店内に取って返すと、見慣れない男が立っていた。商店街の人でも、たまに来る納入業者でもない。一応シャツにジャケットのいで立ちではあるものの、常連の老人のような清潔さはなかった。髪もいかにも乱暴に手櫛を入れただけのように見えるぼさぼさ頭だ。 「客……じゃないよな」  同僚の耳打ちに、レオは頷く。メンバーは皆初めて見る顔に敏感だ。  男は店内に満ちる緊張感など気づきもしないのか、暗い瞳の底をぎらつかせる。 「今戸はどこだ?」 「いまど?」 「マスターだよ」  同僚が囁く。普段店のメンバーも商店街の人々もマスターのことは「マスター」と呼び、それで通じてしまうから、ちゃんと名前があるということを失念していた。  名前を知っているということは、どの程度かはともかく知り合いなのだろう。それでいて好意的とはいえない雰囲気に、店内にいた客も怪訝な表情で男をうかがっている。  さっきまでみんな楽しそうにしてたのに。  誰もがほんの少しだけ輝くものを見つけて帰る。それがコンセプトのトゥインクル・トゥインクル・リトルにおいて、突然やってきた男の存在は明らかに異質だった。澄んだ水の中に一滴汚水が混ざったような違和感。放っておいたらやがて、汚水のほうがすべて覆ってしまうような不快感――  やだ。  策もないままレオが男のほうへ踏み出そうとしたとき、マスターが厨房から出てきた。料理を乗せたドレーンを手にしたまま足を止める。すっと目を細めたその瞬間、マスターが店内の空気を把握したのがレオにはわかった。 「――いらっしゃいませ」  努めていつも通りに声をかける。それからお客様をぐるりと見渡した。それだけで店内の緊張は少しだけほぐれる。  一連の所作は男に対して「話があるなら場所を変えて」と暗に伝えるものでもあるとレオにだってわかるのに、男はそうは思わなかったようだ。 「おい――」  会釈して通り過ぎようとしたマスターの肩を、男が乱暴にひっつかむ。それくらいのことはマスターも予期していたようで、ぎりぎりのところで力を逃して態勢を立て直す。それを目にした男の顔が憎々しげに歪んだかと思うと、今度は直接ドレーンを叩き落とした。 「きゃっ!」  お客様の悲鳴に、スキレットが床を打つ鈍い音が重なる。飛び出した中身がお客様にかからなかったことを確認すると、マスターは男に向きなおった。 「お話があるなら奥で聞きますので。店のお客様へのご迷惑になることはおやめください」  あくまで淡々とマスターの顔を保ったまま告げる。一方で男は目に見えて不機嫌になっていくようだった。 「ああ?」  マスターや店の同僚、客商売なだけにあけっぴろげなようでいてきちんとわきまえている商店街の皆さんとばかり接しているから、こんなふうに生の、それも悪意を垂れ流す男がレオは心底不快だった。ねめつけて一歩も引かないマスターの整った顔に、男は雑言を投げつける。 「店、ねえ。俺たちの店放り出してこんなちんけなことやってるのが、店?」  なにが面白いのか、自分の言葉に自分で下卑た笑いを漏らす。 「……出ていくように仕組んだのは、おまえだっただろ」  それまでずっと「マスター」の仮面をかぶっていたマスターの声に、初めて素の怒気がにじんだ。 「おいレオ、こいつ、マスターが昔いた店の奴じゃないか」 「放り出してなんて、勝手なこと言ってる」  マスターの態度から察するに、この男は嫌がらせの中心人物だったのだろう。  ――って、あれ……?  それなら、なんでわざわざ訪ねて来たんだろう。  ――だって、追い出したくて嫌がらせして、マスターは望み通り出て行って、俺たちのためにこの店をやってる。もう一流レストランに戻ることもないんだから、この人にとってなんにも都合の悪いことはないはずだ。  マスターも当然同じ疑問を抱いたようだ。 「おまえは今でもあの店でうまくやってるんだろ。なんでわざわざ俺にかまう」  ぴき、と空気に亀裂が走ったような気がした。あるいはぱきっと、薄氷を踏みぬくような。いくらレオが耳が敏感なたちでも、そんなわけはないのだが。 「おまえが出て行ったあと、ショックを受けたお嬢さんは海外に留学して、そのまま向こうに居ついた。オーナーのところになんか戻っても来ない。本当ならおまえに振られて傷ついてるところを慰めて、俺が結婚話をものにするはずだったんだよ。それをおまえが……!」 「いやそれ逆恨みもいいとこなのでは!?」  マスターがなにか言うより先に、叫ばずにはいられなかった。同僚たちもそれぞれ「めんどくさい人間が来たな」という顔をしている。  マスターも呆れ果てたようだ。店をちんけ呼ばわりされたときの怒気はもうすっかり消え失せた声で訊ねた。 「お嬢さんと結婚しなくたって、おまえの腕ならシェフになれただろ? スー・シェフとしておまえがよくやってたのはオーナーだって理解してた」 「……った」 「ん?」 「クビになったんだよ。おまえがいなくなって客もごそっと減ったからな。人件費の高いほうから削減てやつだ。今後はもっとカジュアルな店を展開してくんだとさ」  料理人として、同情する面もあるのだろう。マスターはまるでどこか傷が痛みでもするような顔を見せたが、レオに言わせれば「そんなの、あんたたちの自業自得だよー!」である。  撃った弾が、ことごとく自分に当たっている。大丈夫なのかこの人。 「今時本格フレンチのシェフなんてどこもいらないんだとさ。今さらこの俺に味もわからん女子供のために料理作れってか?」  今固唾をのんで成り行きを見守っている店内のほとんどは女性客だ。それだけでマスターと一緒に働いていた頃の態度も目に見えるようだし、お嬢さんは逃げられて良かったとレオは心底思った。 「なのにおまえはこんな店を出して、にこにこ間抜け面で雑誌になんか載りやがって。こんなちゃんとしたレストランでもない店で――幸せそうにしやがって」  散々好き勝手にまくしたてたあと、くぐもったように絞り出す。それはレオの胸も締めつけた。  ああ、この人、なんにもわかってない。  マスターはいつだって、自分の幸せを誰かに見せつけようなんてしていない。  俺と出会う前のことは俺にはわからないけど、でもきっとずっとマスターはそうだったんじゃないのかな。  こういう人のためにこそマスターはお店をやってるのに。トゥインクル・トゥインクル・リトル――高価じゃなくても、立派じゃなくても、その人の中にだけあるきらきらと輝く小さな何か。  マスターのお話を聞く限り、お仕事できない人じゃないみたいだし、この人もそういうものを見つけられたら、こんなふうにならなくてすんだかもしれないのに。  うっかり情が沸いてしまったのが良くなかった。 「おまえがやって来なきゃ、おまえが――この、クソホモ野郎!」  乱暴になっていく言葉と共に感情も爆発してしまったのだろう男が、懐に手を入れる。 キラっとなにかが鋭く光ったと思った瞬間、とっさにかばったマスターの手の甲に、赤い筋が走った。 「キャ――!!!!」  悲鳴が上がる。ドアは男の背後にあるから、そちら側には逃げられない。テーブルから離れた客たちは壁に張り付くようにして男から最大限の距離を取った。  男が手にしているのは、マスターもよく使っている牛刀のようだ。大振りで両刃の刃物、そして目の血走った男。お客様はあの老人を除いて女性ばかりとあって、誰も身動きできなかった。  そしてレオも。  マ、マスターの手から、血が……ッ!  この間ひっかいてしまっただけであんなに動揺したのに、出血量はその非ではない。  マスターの手、みんなのために美味しい料理を作ってくれる手、俺の頭をぽんぽんしてくれる手、トゥインクル・トゥインクル・リトルを作り出してくれた手が―― 「落ち着け。大事な包丁をこんなことに使うな」 「――うるさい! おまえさえいなければ、おまえさえいなければ俺は――!」  男が叫び、牛刀を振り上げる。こじれにこじれた嫉妬がそうさせるのか、その動きは素早い。けして鈍いわけでもないマスターも不意を突かれて硬直している。  レオはマスターが毎日綺麗に磨き上げている床を、思い切り蹴った。
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