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「ポケットのビスケットを叩くとどうなるか?」 テキストから視線を上げた(はやし)教授が尋ねた。教室の学生たちが一斉に圭多(けいた)を振り返る。圭多の脳裏には童謡「ふしぎなポケット」が浮かんだが、これは答えにならないと弱ってしまった。 確か林ゼミは持続可能な世界をテーマにしていたはずだ。音楽とは接点がない。質問の意図は何だ、と次第に顔が熱くなってきた。 「あのー。リスクマネジメントの見地からでよろしいですか? それとも子育て世代のファンタジー論を……」 「何を言ってる?」 教授は訝しげに訊く。 「そんなおかしな質問かね?」 そして息を吐き、白い繊毛のような口髭を撫でた。 「まあいい。もう一度説明するからよく聞くように。 ポケットにビスケットを一枚収めた場面を想像してみたまえ。それは子どもでなくて構わない。むしろ子どもに限定すると思考が偏ってしまうからいけない。 さてポケットの中の丸いビスケット。君の手の平ほどの大きさだろうか。叩くとどうなるか、もう分かるね?」 圭多は瞬きした。言葉としての意味は分かるが、意図が相変わらず不明だ。それでも答えない訳にはいかない。さっきから皆が圭多の反応を待ち構えているのだから。 「ええと。その。ビスケットは割れます」 沈黙していた学生たちは、隣の席の(まさし)が吹き出したのを合図に、大爆笑した。 「信じられない」 「林先生に向かって、冗談?」 教授が机をドンと叩き、場は再び静まった。 「君はふざけているのか? それともまさか本気か?」 圭多は慌てて言い訳した。 「ふざけたつもりは……。実際やったことはありませんが、違いますか? ビスケットは幼児も噛める硬さ。叩けば簡単に割れます。二つに割れるどころか粉々に砕けるのでは」 林教授は声を痙攣(ひきつ)らせた。 「粉々だと……? いったい君の思考はどうなっている?」 「すみません。質問がよく分かってませんでした。叩くのは食品サンプル用のビスケットですか?」 全員が今度は肩を震わせ遠慮がちに笑っている。 「なんで作り物の話になるんだよー。ビスケットを叩けば二つに増えるに決まってるじゃないか」 「二つに増えるだって?」 顔を向けた昌が涙目だ。(かん)に障って圭多は言い返した。 「二つに割れたら欠片が二つ。でも2倍に増えるのとは違うよね」 「いい加減にしろ!」 林教授が声を荒げた。 「常識のない学生が私のゼミに混じっていたとは!」 「す、すみません、ゼミの流れにまだ慣れてなくて」 「関係ない。ほんの少し考えれば誰でも分かる。君は何も考えていないのだ」 これまで学業を疎かにしてきたことを頭の隅で悔い、圭多は目を閉じた。嘲笑を遮り思考に集中するために。 だが頭の中のビスケットは、何度試みても粉々に砕けてしまう。真っ二つに割るのですら、筋目でもなければ至難の業。しかも二つに「増える」なんて描くことができない。 圭多は無言で首だけを振った。 「君は思い込みが強過ぎる。もっとシンプルに考えなさい。二分の一のビスケットがさらに二分の一に、二分の一がそれぞれまた二分の一に、これを繰り返すとどうなるか?」 なるほど、そういうことか。 二分の一の二分の一の二分の一……延々と計算するのは馬鹿馬鹿しいが、有機物として認知できる限界までなら分割する意味はある。このゼミで「増える」とは、欠片の数が増えるという意味だったか。 しかし待て。 「増える」の定義が分かったとしても結果は同じだ。ビスケットの質量は欠片の数と反比例して、それぞれ一つは分割され小さくなる。欠片を集めればビスケット全体の質量は変わらない。もちろん増えない。 「……分子のことです…か?」 「何だとっ!」 教授はギョロ目を剥いて言い放った。 「君はビスケットを見たことがないのかね? もちろん粉々に砕ける場合もあるにはあるが、にしてもまずビスケットがあっての話だろう?」 混乱する圭多に、隣の昌が耳打ちした。 「ポケットに何も無ければ叩いて増える物もないよ」 ごもっともだ。ゼロには何を掛けてもゼロ。それでも教授の期待する答えがやっぱり分からない。 「教えて下さい。どうすれば増えるのですか?」 「さっき、君の隣の彼が正解を言ったではないか」 林教授はもはや呆れた口調だ。 「掛け算、いや、累乗ですか?」 「それ以外あり得ないが?」 「では叩いたビスケットは増えるのですか?」 「当然だ」 「割れずに増えますか?」 「それは反論かね」 教授は軽く鼻であしらう。 「知りたいんです」 だが圭多は食い下がり、少しでも教授とゼミ生たちに共感できる点を探そうとした。さもないとゼミを追い出されるのは必至。 「ビスケットは相対する二つのビスケットになる。割れて粉々になるなど乱暴な思考の表れだ」 「相対したら絶対的な質量を増やせますか?」 「絶対的? 絶対とは何かね? 今しがた通り過ぎた救急車のサイレンは音程を変えていったがね。何を根拠に絶対などと」 「すみません」 「もちろん乱暴にバットで打てばどんなビスケットも粉々だろう。だがそれは一般的とは言えまい。ポケットにビスケットを入れたなら、誰しもあどけない手の平で叩くものなのだ」 「つまり、純粋な心でビスケットを叩くと二つに増えるということですか?」 「他に答えがあるか?」 「待ってください。二つに増えるのはあくまで歌の中の話で、不思議なポケットが一般的とは」 嘲笑に飽きた学生たちが圭多に背を向ける。 「童謡を引き合いに出すとは全く恥ずかしい。良いか、極めて一般的なのだ。ビスケットだけではない。どこででも起きている。至る所、むしろ異なる現象を証明する方が難しいというのに」 テキストの講読を始めた教授に、取りつく島もない。圭多はうなだれてしまった。 □
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