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「しまった……」 圭多は教室に入った途端、出遅れたと思った。しかしまだ午後の開始時刻10分も前。狭い教室は既に満席で、粛々とゼミが行われている。 「何かね。サボタージュの言い訳なら聞く気はない」 試しに圭多は朋の仮説を引用した。 「先生、ビスケットも分裂して増殖するのでしょうか」 「ふん。基本中の基本がやっと分かったのか」 林教授にとっては至極当然で、呆れたと言わんばかりだ。 「どうせ君は、君が一人しか存在しないとでも思っていたのだろう」 「それは今も信じられません。現に僕は僕以外の僕に会ったこともありません」 すると突然最前列の真ん中に位置するゼミ長の回二(かいじ)が、椅子を倒して立ち上がり、圭多へ突進してくる。 「貴様ーっ! 抜け駆けして何か食べてきやがったなーっ?!」 「え?」 一杯のカップ麺が、目を血走らせるほど怒りを買うのか? 身構える間も無く胸ぐらを掴まれた。興奮しているのかやたら息が荒い。殴られることより鼻息が当たるのが気色悪かった。ともすると唇と唇が触れ合いかねない。 咄嗟に払いのけると回二は案外力が無く、崩れるように倒れ、動かなくなった。 「おい、だ、大丈夫……なのか?」 「怒りに任せて君と接触を図ったのだろうね。生き延びるために」 教授は平然と教壇でテキストをめくる。 「この通り皆、飲まず食わず。仕方ないとは言え、彼にもあと少し理性が必要だったねえ。君たち、戒めとするように」 ゼミ生たちは黙ってページをめくった。しかし何だか様子が変だ。隣の昌もページをめくる指先が小刻みに震え、脂汗が滲んでいる。 圭多は教授に意見せずにいられなかった。 「休憩を挟みませんか。そして昼食を摂るように先生からも言って下さい。これでは身体が」 「よせ。いいんだ」 昌が圭多を制した。 「全然良くないだろう? 酷い顔色だ」 「騒いでも意味ないよ」 「どうして? なぜ諦める」 「諦める? 真逆だ」 「そうは見えない。頼むから我慢しないでくれよ」 昌は答えなかった。目が虚ろで、教授の読み上げるテキストが耳に入っているとも思えない。 圭多は前に座る(かど)の椅子を蹴った。何か意見させるつもりだったが、門は振り向くことなくバランスを崩して床に落ちた。 「どうかしてる……」 林教授も喘ぐようにテキストを読み上げている。途切れ途切れで、聞いているだけで息苦しい。 「持、続可能、な……世、界を……」 持続可能? これがゼミのテーマ? 全部机上の空論じゃないか。 圭多の地団駄踏む教室の床が、軋み音を立てる。この古い校舎もいい加減寿命だろう? 「先生! 誰も聞いてません! 聞けません! 世界を語る前に、目の前の現実をどうにかして下さい!」 教授は動じない。それどころか(しゃが)れ声が苛立っている。 「愚か者。何一つ、リスクを背負わずに、世界が持続、可能だと、思っておるのかっ」 教授が拳を下ろした振動で、教室の壁が一部剥がれ落ちた。 学生が倒れても動じないくせに、教授は慌てて立ち上がり、心許ない身体でなんと本棚ごと抱えて壁を塞ぐ気だ。 「おいっ! 口答えを、考える余裕があるなら、手伝えっ!」 しかし林教授もついに膝が折れてしまった。昌がおぼつかない足取りで歩いてくる。意思などない。目が泳いでいる。そして壁の穴から外側に、腰からジュワリと吸い込まれていく。いや滲み出すと言う方が近いのか。求心力を失った教室から昌の身体が、外へ向かってジュワジュワ、と(こぼ)れていく様はまるで細胞膜が破れたゾウリムシの構成組織のようだ。 「昌っ」 成り行きを眺める場合ではない。圭多は慌てた。夢中で昌を中に引きずり戻した後も、次は回二が(こぼ)れていく。物質は密度の高い方から低い方へ流れたがるからキリがない。しかし教授は倒れていてもなお、林ゼミの核であろうとした。 「早く、壁を、塞ぐのだっ」 「いったい何が」 「教室が、いや世界が、劣化しておる」 「まさか」 教授が力なく窓の外を指差した。 見れば他の研究棟のレンガにも同様に穴があいている。各教室のアイデンティティを保持してきた外形(サイボーマク)は今や崩壊し、中から何やらジュワジュワ浸み出している。圭多は焦って目の前の穴を塞いだ。 「世界にはまだ、危機感が足りない……」 「既に生命が危険ですよっ」 「接合は、まだなのか」 「接合? なぜそれを」 教授の呻きに応えた棟が一つ、突如飛び上がった。 重力を凌ぐ欲動で隣の棟との接合を試みたらしいが、相性が悪かったのか破談、反発に任せて巨大なレンガの塊が圭多らの窓の正面から飛んでくる。 「う、うわ、うわぁぁぁぁぁっ!」 一貫の終わりと絶望したが、目を開けばまだ生きていた。衝突は免れたのか? しかし今や接合相手を求めて建物全てが飛び交い始めたキャンパス敷地はまさにカオス。 景色は接近と反発で騒々しく蠢き、今頃になって緊急速報のアラートが教室内で鳴り出した。各自のスマートフォンが断続的に警告する。ところが誰一人動けない。圭多はポケットから自分のを取り出し、画面のメッセージを読んだ。 「は? 宇宙が接近中で間もなく衝突します? 聞いたことないよ! 先生、大変です! 宇宙が衝突するって、早くっ! しっかり立って下さい! みんなも早く! 起きろっ! 逃げなきゃ! 逃げるんだ! 逃げるんだ! 逃げろ、あれ? 逃げる……って、どこに?」 圭多は頭が真っ白になった。宇宙が衝突なんて、規模が大き過ぎてイメージができない。 逃げて助かる場所なんて、どこかにあるんだろうか? ある訳がない。 地球だって太陽系だって銀河系すらあっけなく消滅して終わりだ。 もうすぐ世界の歴史が幕を閉じるんだ。 ……… いや、違う。 逃げる必要はない。 今ごろ朋は舞い上がってんじゃないか? もの凄い歴史的瞬間に立ち会うことができるのだ。 宇宙はこうして若返りを図ってきたんだろう? 圭多は目を輝かせて見守った。 持続可能な世界であろうとして、上空で巨大な闇が世界を覆い始めている。 宇宙と宇宙が互いの遺伝子を獲得する壮大な接合が、始まったのだ。 □
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